<データが残っていない!>(2)
★撮ってきた写真がない2つの失敗。(1)富良野市に行った時、パソコンに写真を取り込んで終了時に削除していた。(2)釧路市に行った時、汽車の窓枠にデジカメを引っかけて、裏の蓋が開いてしまう。自宅に戻って店で確認して貰ったら、データも破損していた。
(2)釧路行き
さて、データがない続きは釧路行きである。きっかけは冒頭の画像。北海道新聞朝刊「卓上四季」を読んで、★バス停「しゃも寅通」が気になったからである。
前に石川啄木の足跡を辿るために釧路に行ったが、このバス停は見ていなかった。確かめよう。
JR特急スーパー大空1号で釧路までは4時間ほどかかる。日帰りで3ヶ所に行く予定だが、まずバス路線が違うので効率よく動けるように計画を立てる。
①バス停「しゃも寅通」(たくぼく循環線:外回り内回り)
釧路駅前から徒歩で幾つかの彫刻を観てバスに乗った。駅の右方向になる。 釧路にこんな路線があったのだ。★たくぼく循環線(外回り):「啄木通」⇒「小奴の碑」⇒「啄木ゆめ公園」⇒「休み坂」。ここでバスを乗り換え(内回り):⇒「しゃも寅通」があった。 この後に幾つかの停留所がある。
②次に気になっていた 野外彫刻作品2点 を観に行く。
★淀井敏夫作「飛翔」(「釧路大規模運動公園」)
市街からかなり遠く離れている。バスは1時間に1本。各運動ができる広大な公園の一角に、目的の彫刻があった。約7メートルの4本の杭が建ち上の円状でタンチョウの群れが飛翔している、大作である。晴れた空にタンチョウが映えていた。壊れたデジカメの裏蓋を押さえながら不自由な姿勢で撮っていたら、レンズの中にカラスが写り込んできた。タンチョウとカラス、これもいい・・。カアーと飛び立ったので、後ろを振り返えると、その辺に置いていたバックからチョコレートを抜き取った仲間と逃げて行った。なるほど、役割分担で仕事をするカラスは頭がいい。
★米坂ヒデノリ「氷原」(釧路市文化会館前庭)
いったん、市街中心部へ。駅からバスで10分ほどの場所にある文化会館に着く。前庭にマントのような衣服で身を固めて頭部を上げている女性像。天を仰ぐように建つブロンズ像は精神性を感じさせる(釧路出身の作家、原田康子の小説「挽歌」をイメージして彫ったとも、いわれている)
釧路駅に戻り、夕方の特急で札幌に戻る。残念ながら、この一日の写真が残っていない。
★最後に2枚の写真。
石川啄木は明治41年1月21の午後9時半、後に貨物駅になる浜釧路駅に一人で降り立った。
「さいはての驛に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき」
現在の釧路駅から徒歩10分ほどにある「幸町公園」傍の駅跡地に啄木の歌碑が建っています。
釧路川が流れる街。冬は厳しく、夏は夕陽が輝き、美しい風景です。
<データが残っていない!>(1)
★撮ってきた写真がない2つの失敗。(1)富良野市に行った時、パソコンに写真を取り込んで終了時に削除していた。(2)釧路市に行った時、汽車の窓枠にデジカメを引っかけて、裏の蓋が開いてしまう。自宅に戻って店で確認して貰ったら、データも破損していた。
★(1)富良野行き
2013年10月、仕事で富良野に行った時である。
アーティスト鈴木果澄さんの個展が観たいのでJRで前日に出かけた。
8時過ぎの旭川行きの特急に乗り、滝川で乗り換えて11時前に富良野駅に到着。タクシーで10分ほどの「カンパーナ六花亭ギャラリー神々の遊ぶ庭」に着く。
鈴木果澄さんの個展は「太陽の物語り」絵と詩の世界である。作家さんは「太陽の恵み、自然の恵み、命の繋がり」を大切にしたいとのメッセージ。宇宙の創造と喜びのなかで動植物が活き活きと描かれている。個展を観た後、敷地内の六花亭で昼食にする。十勝岳が一望できる雄大な景色を眺めて「太陽の物語り」に浸る。
お土産を買ってホテルにチエックイン。次ぎは「ファーム富田」に行く。
JR富良野駅から10分ほどの中富良野駅で下車し、徒歩で25分ほどの場所にある。紅葉の木々を境にした段々畑や紅葉並木通りを歩き、見事な風景を観賞して富良野市駅前のホテルに戻る。
翌日はバスの車窓から美しい風景を眺めて訪問先へ。帰りに富良野駅周辺を写真に収めて富良野駅~旭川線特急に乗り継いで札幌へ。20時前に札幌に帰宅。
この足どりで撮った写真を疲れた頭でパソコンに取り込んでいたが、メセージに沿って2日間の写真を削除してしまったのである。
★先日、高速ふらの号に乗って富良野市街を見下ろせる丘陵地にある住宅地まで行ったので、その写真を貼っておきます。(富良野市までは車で20分ほど離れています)
次回は、釧路です。
★道内のJR駅シリーズ白石駅 菊水地域の豊平川 ③
木田金次郎は17歳のある日、数枚の絵とスケッチしたのを丸めて有島家を訪ねました。
「有島は金次郎が恥ずかしげに差し出す絵を一枚一枚ピンで止めたり、立てかけたりして、じっと眼を注いだ。 そして、<個性的な見方をしてある>(先生を憶ふ)と、率直にほめた。やがて夫人の安子も座に加わった。」・・。 「有島の言葉に、やってゆけそうだ。」 二人の対面は、ある測りがたい力の導いた運命的な出会いであったというべきである。 (「有島武郎の世界」第2章:114頁~115頁)
「これほどにも私を郷土と郷土を描く仕事にむすびつけたものはなんだったのだろう。それはいうまでもなく有島武郎とのめぐりあいだった。「生れ出づる悩み」に描かれた通りの有島との交流が当時の私に、世に隠れたひたむきな画家として生きる道を決めさせたのだった。」生誕120年を迎えて特別展(「KIDA KINJIRO」図録より)
当時、有島は札幌農学校の英語教師で(現在の北海道大学)、美術部サークル「黒百合会」の顧問をしていました。札幌はじめ、北海道の画家たちに大きな影響を与え、サークルは現在も活動しています。
木田が61歳の時に、洞爺丸台風による「岩内大火」で自宅の他、殆どの作品を焼失(約1500点の作品)。周囲の励ましから失意を乗り越えてひたすら絵を描きます。
北海道ニセコ近くの故郷、岩内町で生涯画家として生き、69歳に脳出血で亡くなりました。 (岩内町の港湾近くに「木田金次郎美術館」があります。)
★道内のJR駅シリーズ 白石駅 周囲の歴史 ②
★札幌市白石区の歴史を簡単に、少し長文になります。
1871年(明治4年)に仙台藩の白石城主が移住して出来たのが白石村です。1972年札幌市の白石区となりました。
白石駅は主に貨物運搬、簡易停車場として開業しています。先のレンガの話ですが、北海道でも良質な資源としてレンガや石炭が国の中央の発展のために、鉄道が敷かれて港湾まで運ばれていきました。
いつの時代も国の計画に翻弄されながら中央都市が栄えていき、地方地域の経済的な潤いは、一時的になるようです。(夕張などの地域で栄えた炭鉱も、夕張市の経済破綻から12年経ち、超高齢化、人口減少を抱えています。都市と地域の貧富の差が生じる深刻な問題になっています。)
★北海道は蝦夷と言われていました。明治幕末ごろに松浦武四郎が蝦夷地の調査をして北海道と命名し、しかも石狩川支流の湿地の広い土地(現在の札幌)を見て京都を想い、北海道の都にしなさいと提案までしたのです。
明治政府が札幌に「北海道庁本庁舎」を設置し、札幌は計画的に発展してきました。北海道の農業国開拓に向けて北欧の要職者を招聘し、クラーク博士を教頭に「札幌農業学校」を開校し、(現在の北海道大学)で研究者や人材を育成したのです。
卒業した内村鑑三、新渡戸稲造、後に母校の英語教師となり、白石区菊水で過ごした小説家有島武郎も、その一人です。
★次回は札幌市街を貫通する豊平川。沿岸に居住する歴史に少し触れて見ましょう。
★道内のJR駅シリーズ 白石駅 ①
今回の目的地はJR白石駅から徒歩10分。相手方と改札口近くで待ち合わせです。 さて方向音痴の私は一つ前の列車に乗って、まず構内と道順の確認。
待合室のドアーが開くとガラス張りの休憩場所は広々としています。北口から10分ほどなので十分に時間はある、駅構内を探索しましよう。
次回へ。
(★はてなブログ:カーソルのところに画像の貼り付けができないのは、私のパソコンが、Windows 7と Internet Explorer11のため? どうも相性が悪い? ツイッターでもGIFなどの画像が表示されない。動きが悪くなるとウイルバスターがスキャンを始める。しかも去年の地震でエンターキーが飛んでしまい、キーをセロテープで抑えて、だましだまし使っている。 こんな状況も、12月にはノートパソコンに替える予定。)
★札幌知事公館庭園シリーズ (6)
さて、道内JR駅シリーズを少しお休みします。
「札幌知事公館」庭園夏の風景です。(「いにしえの川」)
出来上がるのに時間がかかり、季節に追いつきません。
今は庭園内の紅葉を描いています。
★画像は和紙を素材に作りました。大きさはP10号です。
作品づくりは、薄い小さな和紙を重ねていくので完成までけっこう手間が
かかります。
シリーズは、まだまだ続きます。
道内のJR駅シリーズ小樽 <文学、芸術の街> ③
★小樽文学館 常設展(資料を参考に)
小樽をゆかりの地とする代表的なプロレタリア文学の小林多喜二、小説家・文芸評論家の伊藤整、小説家の岡田三郎、歌人の石川啄木、詩人の小熊秀雄や吉田一穂ほか、約35名の小樽ゆかりの小説家、詩人、歌人、俳人の著書や資料などが常設の各コーナーに展示されています。
文学館の学芸員さんや職員さんによる分かりやすい手書と似顔絵で、有名人の特徴やエピソードが紹介してあり面白いです。ソフアに座って、当時の文学者を思いながらゆったり過ごせる、小樽の街に似合う文学館ですね。
★小樽駅を乗下車した芸術家たち。
その中で石川啄木が4ヶ月小樽で過ごした様子を以前のブログで書いています。
のブログ記事を飛ばしてお読みください。最後に、以前のブログのアドレスをコピーして貼り付けましたが、上に飛んでしまいました。削除する方法も分かりません。
石川啄木に興味のある方が読んで頂けるとありがたいです。読みにくい記事で申し訳ありません。よろしくお願いします。
道内のJR駅シリーズ小樽駅、夕方からの装い ②
次回は、小樽文学館、美術館から小樽の文学や芸術に触れましょう。
道内のJR駅シリーズ、小樽へ ①
「 小樽都通り商店街」の通りを左折した下の方に、旧国鉄手宮線の廃線跡があります。
<1880年(明治13年11月28日に開通)北海道初・日本で3番目の鉄道>
その線路の表示に沿って、右手の建物が小樽市立文学館と小樽美術館です(駅から徒歩で10分ほど)
また文学館・美術館の建物から徒歩で5分ほど海に向かった場所に、ニトリ芸術の村があります。20世紀初頭に建造された4棟の建物内に、日本や世界の優れた美術品・工芸品の展示や企画展があり、芸術品が堪能できます。
次回は、夕方~の小樽駅前、構内ホームの装いを。
(★画像に貼り付ける文字ですが、なかなか訂正ができません。慣れないためか、読みやすく空白を作ると、文章が繋がらず表示されなくなります。文字が薄く、だらだらとした文章で読みにくいと思います。そのうちに解決するでしょう。)
道内のJR駅シリーズ、旭川駅③ 彫刻の街
★旭川の文学に触れて。
「氷点」の舞台になった場所「外国樹種見本林」の入り口に「三浦綾子記念文学館」が建っています。深い雪の中を林に入り、やっと土手を上がり下方に美瑛川が広がっていました。雪に覆われた川です。旭川の冬は厳しいですね。
この小説の世界は、辻口病院院長とその妻夏枝との間に生まれた娘(るり子)が美瑛川原で殺され、その殺人犯の娘を夫婦が育てる、嫉妬や疑惑の感情が養女(陽子)を自殺までに追い込む内容です。陽子が自殺するのに「・・ひざまで埋まる雪の中を一歩一歩、歩いて行った。・・雪が吹き抜けて、片側だけが白い松の幹に。陽子は歩きなやんで手をかけた・・・」小説で自殺を図ったのは美瑛川原ですが、作品作りでは、樹木に流れる樹液の温かさを手に感じて静かに癒される、そこで得られる心の平和、清さを描きたいと思いました。
★最後に、旭川は彫刻の街とも言われています。街の至る所に彫刻作品が配置してあり、景色を眺めながら作品巡りも楽しいですね。今回は駅構内の彫刻を紹介しました。4代目の新しい駅舎の建設から駅前の彫刻作品2点が撤去されました。旭川駅②のブログに載せた画像、3代目の駅前の折原久左エ門作「抱」と、西武百貨店の看板のように付いている緑色のステレンスは、彫刻家多田美波氏の作品です。私の好きな作品は、どこに行ったのでしょう。
★次のJR駅シリーズ、小樽駅に行きましょう。
(記事を書くのに、画像の関係で文章が後先になりました。画像に貼り付ける文章を多くしたいのですが、薄文字になって読みにくいと思います。今後の検討)