思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ある日の風景>

12月12日、札幌市内の南方面に行ってきました。

10時頃には何処にも白いものが見当たらず、藻岩山の雑木林を見渡すことができました。

 

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ころが、15時頃のバス停は白い装いです。

着ていく服装も、帰宅時には油断できませんね。

 

札幌の根雪(長期積雪)開始日で、

最も遅いのは12月14日です。

いつだったか、雪のないクリスマスを迎えたこともあります。

さて、今年はどうでしょう。

 

★何かと気忙しく、ブログを少々お休みしますが、これからも宜しくお願いいたします。

 

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<「サクシュコトニ川」を調べています>

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札幌の中心部にある大通公園、JR札幌駅、北海道大学周辺は豊平川が運んで出来た扇状地の扇端(せんたん)で、北海道大学周辺でも湧水があり、幾つかの小川が流れていたようです。

 大学関係者のお話しによると「サクシュコトニ川」は、1990年頃には水位は低くゆったりと流れていたが、2003年の工事後には勢いある現在の流れになっているとのことです。川は一度も枯渇することなく、自然川として流れていたのではと推測できます。現在、資料も含めて調べ中です。分からないことが分かる、楽しい時間ですね。

 

明治4年頃、開拓使北海道大学の近くに日本初の都市公園偕楽園を造成しています。(現在は跡地に「偕楽園緑地」公園として整備されています)。この場所に湧水池があり「サクシュコトニ川」が流れていたようです。北海道大学構内に流れている「サクシュコトニ川」も含め、もう少し調べて、後日ブログでご紹介したいと思います。

 

さて、北海道大学 札幌キャンパスは、南から北へと、少し右に傾いた縦楕円形の形で広がっています。総面積は約177万平方メートル(東京ドーム38個分に相当するとも。)

<キャンバスの入り口は3ヶ所>

①「正門」:JR札幌駅から徒歩で10分以内。クラーク像がある中央部分には各施設が集中しています。  写真は「北海道大学総合博物館」(秋の風景)

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②「北13条門」:大野池やイチョウ並木があります。写真は「大野池」

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③「北18条門」札幌農学校第2農場へ。写真は「札幌農学校第2農場」(夏の風景)

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*正門から入り、「中央ローン」→「エルムの森(理学部ローン)北大総合博物館)→「ポプラ並木」→「大野池」→「イチョウ並木」→15分ほど歩いて「札幌農学校第2農場」へと続きます。

「サクシュコトニ川」には、②の「北13条門」地下鉄南北線北12条駅で降りて徒歩10分以内。冬期も可能です。

 

<吹雪で揺れる枯れ枝に沿って流れる、琴似川>

前のブログでは、琴似川が流れる橋を渡って帰りました。

目も開けられない程の吹雪で、写真を撮るのが意識から飛んでいました。

( 写真は、ある日の吹雪。 )

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(1)札幌市を流れている川のひとつ<琴似川>。 さっぽこのウェブログを参考にさせていただき、川の成り立ちを少し書きたいと思います。

明治29年頃から地図に、<琴似川>と表記してあるようです。

札幌市を流れる二級河川。北海道が管理する新川水系の支流で、北西へ向かう新川の

上流部が、琴似川と呼ばれています。

 

(2)明治30年頃~大正時代の地図には、琴似川の支流として<サクシコトニ川>

 が記されているようです。

北海道大学の構内を流れる<サクシコトニ川>。(アイヌ語「サクシュ」

浜の方をとおる、「コトニ」は、くぼち、という意味があるとのこと。

 

実は、私がこの<サクシコトニ川>(現在はサクシュコトニ川)に、興味を持ったのは2014年に開催した「札幌国際芸術祭」からです。

札幌は扇状地なので至る所に湧き水があり、開拓そして都市化から水脈も変わり、枯渇した川は忘れられています。

札幌駅近くの北海道大学の植物園付近で沸き出す水源が北海道大学構内に流れていた小さな川、サクシュコトニ川です。

 

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1951年(昭和26年)に、札幌の都市化で地下水位が下がり水源が枯れて、サクシュコトニ川もなくなったのです。★情報をいただき、2003年前にも川は流れていたとのことです。もう少し調べようと思います。後日ブログに。)2003年に大学の事業として、川を人工的に再現しています。(札幌市北区北8条~9条西7丁目北海道大学構内)

地下鉄南北線の北12条駅から構内まで 4分。この入口から近い場所に川が流れていました。

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★次回は、札幌の都市化で失われた自然、芸術で歴史の跡を見ましょう。

 

<景色が様変わり>(11月28日の札幌)

地下鉄南北線で札幌市内の中心部へ出かける。9時頃の歩道は乾いていて、冷たい風がなければ秋日和を感じさせるお天気。

屋内で過ごし12時頃には降り出した雪を窓越しにちらちら眺めていたが、15時過ぎに外に出てびっくり。すっかり景色が様変わりしていた。

 

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訪問先に風邪を持ち込んではいけない。事前に日時を決めているので休むわけにはいかない、あらゆる公共交通手段を選んで目的地に向かう。冬期間の遠出には特に準備して出かける。旭川に行った時、私のスタイルを見て笑っていたようだが、まずマスクをしてダウンコートのフードをしっかり結ぶ。

ファーが邪魔なので取り外して、このフードのみをいつも持ち歩いている。

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25日に市内の北方面に行った時も積雪はなく朝は晴れていた。橋を渡り、先を急ぐので帰りに川を撮ることにした。

帰りには屋外が真っ白で吹雪いていた。琴似川から吹き付ける雪で足元がおぼつかない。風で背中を押されながら、やっと橋を渡ってバス停に着いたが写真を撮らずじまい。

 

★次回は琴似川について書きます。

 

< 11月20日 旭川へ >

JR札幌駅7:30発、特急宗谷線旭川に行ってきました。

写真で旭川駅周辺をご紹介しますね。1階の北口(東側)の通路にある観光物産店です。

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さて、外は吹雪いていました。バスターミナルから、30分以上かかるバスに乗って目的地に向かいます。

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帰りは晴れていましたが、15時過ぎで気温は0度です。横断歩道は冷たい風でツルツル。冬靴でも滑って疲れますね。

イオンモールはJR駅北口(西側)の通路に直結しています。少々のおやつを買いました。

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1階通路の南側に旭川デザイン賞の作品が幾つか展示してあります。2014年に入選した「テーバード チェア」作品です。

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最後に駅構内1階東口にある彫刻美術館ステーションギャラリーで、北海道教育大学旭川校美術分野の大学生による作品展です。(~11月24日まで)

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JR札幌駅到着、すっかり暗くなっていましたが、気温は温かく感じました。

<データが残っていない!>(2)

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★撮ってきた写真がない2つの失敗。(1)富良野市に行った時、パソコンに写真を取り込んで終了時に削除していた。(2)釧路市に行った時、汽車の窓枠にデジカメを引っかけて、裏の蓋が開いてしまう。自宅に戻って店で確認して貰ったら、データも破損していた。

(2)釧路行き

さて、データがない続きは釧路行きである。きっかけは冒頭の画像。北海道新聞朝刊「卓上四季」を読んで、★バス停「しゃも寅通」が気になったからである。

前に石川啄木の足跡を辿るために釧路に行ったが、このバス停は見ていなかった。確かめよう。

JR特急スーパー大空1号で釧路までは4時間ほどかかる。日帰りで3ヶ所に行く予定だが、まずバス路線が違うので効率よく動けるように計画を立てる。

 

バス停「しゃも寅通」(たくぼく循環線:外回り内回り)

釧路駅前から徒歩で幾つかの彫刻を観てバスに乗った。駅の右方向になる。 釧路にこんな路線があったのだ。★たくぼく循環線(外回り):「啄木通」⇒「小奴の碑」⇒「啄木ゆめ公園」⇒「休み坂」。ここでバスを乗り換え(内回り):⇒「しゃも寅通」があった。 この後に幾つかの停留所がある。

 

②次に気になっていた 野外彫刻作品2点 を観に行く。

淀井敏夫作「飛翔」(「釧路大規模運動公園」)

市街からかなり遠く離れている。バスは1時間に1本。各運動ができる広大な公園の一角に、目的の彫刻があった。約7メートルの4本の杭が建ち上の円状でタンチョウの群れが飛翔している、大作である。晴れた空にタンチョウが映えていた。壊れたデジカメの裏蓋を押さえながら不自由な姿勢で撮っていたら、レンズの中にカラスが写り込んできた。タンチョウとカラス、これもいい・・。カアーと飛び立ったので、後ろを振り返えると、その辺に置いていたバックからチョコレートを抜き取った仲間と逃げて行った。なるほど、役割分担で仕事をするカラスは頭がいい。

★米坂ヒデノリ「氷原」(釧路市文化会館前庭)

いったん、市街中心部へ。駅からバスで10分ほどの場所にある文化会館に着く。前庭にマントのような衣服で身を固めて頭部を上げている女性像。天を仰ぐように建つブロンズ像は精神性を感じさせる(釧路出身の作家、原田康子の小説「挽歌」をイメージして彫ったとも、いわれている)

 

釧路駅に戻り、夕方の特急で札幌に戻る。残念ながら、この一日の写真が残っていない。

 

★最後に2枚の写真。

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石川啄木明治41年1月21の午後9時半、後に貨物駅になる浜釧路駅に一人で降り立った。 

「さいはての驛に下り立ち

雪あかり

さびしき町にあゆみ入りにき」

現在の釧路駅から徒歩10分ほどにある「幸町公園」傍の駅跡地に啄木の歌碑が建っています。

 

釧路川が流れる街。冬は厳しく、夏は夕陽が輝き、美しい風景です。

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<データが残っていない!>(1)

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★撮ってきた写真がない2つの失敗。(1)富良野市に行った時、パソコンに写真を取り込んで終了時に削除していた。(2)釧路市に行った時、汽車の窓枠にデジカメを引っかけて、裏の蓋が開いてしまう。自宅に戻って店で確認して貰ったら、データも破損していた。

 

★(1)富良野行き

2013年10月、仕事で富良野に行った時である。

アーティスト鈴木果澄さんの個展が観たいのでJRで前日に出かけた。

8時過ぎの旭川行きの特急に乗り、滝川で乗り換えて11時前に富良野駅に到着。タクシーで10分ほどの「カンパーナ六花亭ギャラリー神々の遊ぶ庭」に着く。

鈴木果澄さんの個展は「太陽の物語り」絵と詩の世界である。作家さんは「太陽の恵み、自然の恵み、命の繋がり」を大切にしたいとのメッセージ。宇宙の創造と喜びのなかで動植物が活き活きと描かれている。個展を観た後、敷地内の六花亭で昼食にする。十勝岳が一望できる雄大な景色を眺めて「太陽の物語り」に浸る。

 

お土産を買ってホテルにチエックイン。次ぎは「ファーム富田」に行く。

JR富良野駅から10分ほどの中富良野駅で下車し、徒歩で25分ほどの場所にある。紅葉の木々を境にした段々畑や紅葉並木通りを歩き、見事な風景を観賞して富良野市駅前のホテルに戻る。

 

翌日はバスの車窓から美しい風景を眺めて訪問先へ。帰りに富良野駅周辺を写真に収めて富良野駅旭川線特急に乗り継いで札幌へ。20時前に札幌に帰宅。

この足どりで撮った写真を疲れた頭でパソコンに取り込んでいたが、メセージに沿って2日間の写真を削除してしまったのである。

 

★先日、高速ふらの号に乗って富良野市街を見下ろせる丘陵地にある住宅地まで行ったので、その写真を貼っておきます。(富良野市までは車で20分ほど離れています)

 

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次回は、釧路です。




 

★道内のJR駅シリーズ白石駅  菊水地域の豊平川 ③

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大正時代には白石菊水に遊郭が建ち、豊平川沿いは特に貧しい人々が住む「札幌の貧民窟」と言われていました。また戦後には外地から引き揚げてきた人々がバラック建てに住み、「サムライ部落」とも呼ばれていました。悲しい思いと苦しい生活が想像できますね。大正時代に貧しい家庭の子弟にも教育との思いから、札幌農学校教授をしていた新渡戸稲造が無償の「遠友夜学校」を開校しました。


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「遠友夜学校」では、札幌農学校の教師や学生がボランティアで教え、小説家の有島武郎も運営に参加して後に代表になっています。有島は家族と一軒家を借りて、明治43年5月~1年ほど、夜学校から豊平川を渡ったリンゴ園の一角、今の菊水1条1丁目に住んでいました。豊平川東側の小さな公園の向かい側に跡地があり、借家は「北海道開拓の森」に移設しています。


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家は一般的な造りですが、上げ下げができる洋風の窓を取り入れるなど、室内も和洋折衷。有島は居間の障子を開けて小説の構想を練りながら周囲のリンゴ園を眺めていたでしょう。 洋画家の木田金次郎が17歳の時に有島宅を訪ねました。有島の小説「生れ出づる悩み」は画家がモデルと言われています。 


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『或る日』 和紙を素材に描いてみました。(F10号)

 

木田金次郎は17歳のある日、数枚の絵とスケッチしたのを丸めて有島家を訪ねました。

「有島は金次郎が恥ずかしげに差し出す絵を一枚一枚ピンで止めたり、立てかけたりして、じっと眼を注いだ。 そして、<個性的な見方をしてある>(先生を憶ふ)と、率直にほめた。やがて夫人の安子も座に加わった。」・・。 「有島の言葉に、やってゆけそうだ。」 二人の対面は、ある測りがたい力の導いた運命的な出会いであったというべきである。 (「有島武郎の世界」第2章:114頁~115頁)

 

「これほどにも私を郷土と郷土を描く仕事にむすびつけたものはなんだったのだろう。それはいうまでもなく有島武郎とのめぐりあいだった。「生れ出づる悩み」に描かれた通りの有島との交流が当時の私に、世に隠れたひたむきな画家として生きる道を決めさせたのだった。」生誕120年を迎えて特別展(「KIDA KINJIRO」図録より)

 

当時、有島は札幌農学校の英語教師で(現在の北海道大学)、美術部サークル「黒百合会」の顧問をしていました。札幌はじめ、北海道の画家たちに大きな影響を与え、サークルは現在も活動しています。

 

木田が61歳の時に、洞爺丸台風による「岩内大火」で自宅の他、殆どの作品を焼失(約1500点の作品)。周囲の励ましから失意を乗り越えてひたすら絵を描きます。

北海道ニセコ近くの故郷、岩内町で生涯画家として生き、69歳に脳出血で亡くなりました。 (岩内町の港湾近くに「木田金次郎美術館」があります。)

 

★道内のJR駅シリーズ 白石駅 周囲の歴史 ②

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さて、白石駅待合室のドアーから南側と北側を結ぶ自由通路に出ましょう(幅36m×奥行き4m)。右側の白い壁に「白石駅」の文字が目立ちます。左側にはパン屋さん、美味しいらしい。帰りに立ち寄ることにし、今回は左側の北口方面に行きます。


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通路中央の窓からは線路で行き交う列車や、その奥に高層ビルの多い街並みが見えます。ゆっくり眺めるのも良いでしょう(快速や特急は止まりません)。中央通路を左折する右角にエレベーター、こちらにも自由通路があり休憩ができます。北側の窓から見て、高層ビルや大型商業施設は少ないようですね。奥のエスカレーターを降りて1階構内から外に出ます。


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「旧駅の写真がどこかに掲示してありますか?」「ないです。北側の1階に古い写真がありますね」と駅員さん。これが壁に掲示してあった鈴木煉瓦製造場です(写真はレンガ干し)。写真に「鈴木煉瓦製造場は明治17年(1884)に、現在の白石区平和通6丁目につくられ、北海道における本格的なレンガ製造業の先駆けとなりました。・・」。現在の駅住所は平和通3丁目、駅に近い場所にレンガ工場がありました。駅の広場モニュメントにレンガが使用されています。多分、皆さんは観光や写真でご存知でしょう。「北海道庁本庁舎(赤レンガ庁館)や東京駅の丸の内駅舎も、白石のレンガで作られたようですね。


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★札幌市白石区の歴史を簡単に、少し長文になります。

1871年(明治4年)に仙台藩白石城主が移住して出来たのが白石村です。1972年札幌市の白石区となりました。

白石駅は主に貨物運搬、簡易停車場として開業しています。先のレンガの話ですが、北海道でも良質な資源としてレンガや石炭が国の中央の発展のために、鉄道が敷かれて港湾まで運ばれていきました。

いつの時代も国の計画に翻弄されながら中央都市が栄えていき、地方地域の経済的な潤いは、一時的になるようです。(夕張などの地域で栄えた炭鉱も、夕張市の経済破綻から12年経ち、超高齢化、人口減少を抱えています。都市と地域の貧富の差が生じる深刻な問題になっています。)

 

★北海道は蝦夷と言われていました。明治幕末ごろに松浦武四郎蝦夷地の調査をして北海道と命名し、しかも石狩川支流の湿地の広い土地(現在の札幌)を見て京都を想い、北海道の都にしなさいと提案までしたのです。

明治政府が札幌に「北海道庁本庁舎」を設置し、札幌は計画的に発展してきました。北海道の農業国開拓に向けて北欧の要職者を招聘し、クラーク博士を教頭に「札幌農業学校」を開校し、(現在の北海道大学)で研究者や人材を育成したのです。

卒業した内村鑑三新渡戸稲造、後に母校の英語教師となり、白石区菊水で過ごした小説家有島武郎も、その一人です。

 

★次回は札幌市街を貫通する豊平川。沿岸に居住する歴史に少し触れて見ましょう。

 

 

★道内のJR駅シリーズ 白石駅 ①

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(画像は現在の橋上駅舎です)白石駅は1903(明治36年)に開業し、一時廃止しています。その後1968年の駅舎は風除けで覆われた平屋のコンクリート造りで、2011年の現在の橋上駅舎になるまで使用されていました。当時の駅は南側と北側が分断していたのです。私は駅の南改札から外に出て、左側にある歩道橋や踏切を渡って北方面に行きました。高所恐怖症なので冬は寒く、滑るので大変。JRの利用も減っていきました。


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2011年、地上駅から橋上駅に新築した白石駅。先日ホームに降りたち、全体が明るく気持ちがいいですね。列車の通過で新駅は見ていたのですが、8年経って駅構内に入ったのです。地下鉄東西線白石駅は、JR駅から約1.6 km離れた別の場所にあります。地下鉄からバス乗り継ぎが便利で、ほとんど地下鉄を利用していました。


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 今回の目的地はJR白石駅から徒歩10分。相手方と改札口近くで待ち合わせです。  さて方向音痴の私は一つ前の列車に乗って、まず構内と道順の確認。

待合室のドアーが開くとガラス張りの休憩場所は広々としています。北口から10分ほどなので十分に時間はある、駅構内を探索しましよう。

 次回へ。

 

(★はてなブログ:カーソルのところに画像の貼り付けができないのは、私のパソコンが、Windows 7と Internet Explorer11のため? どうも相性が悪い? ツイッターでもGIFなどの画像が表示されない。動きが悪くなるとウイルバスターがスキャンを始める。しかも去年の地震でエンターキーが飛んでしまい、キーをセロテープで抑えて、だましだまし使っている。 こんな状況も、12月にはノートパソコンに替える予定。)