思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

戦争に巻き込まれた民衆の痛みを通して。画家 富山妙子氏の著書から。①

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戦後76年、なぜ、あの戦争が起きたのか。この夏になって特に思いめぐらしています。

世界で初めての原子爆弾が広島と長崎に投下された。あの悲惨な戦争は急に起きたのではない、なるべくして起きたと言われています。政府の思惑に巻き込まれて第二次世界大戦へと突き進み、戦争を止められなかった日本。

7月27日、ツイッターのタイムラインから流れてきた紹介の本を偶然目にし、日本が「満州国」を建立した頃に暮らしていた当時を語る良書を読むことができました。ツイッターは情報の宝庫ですね。著書からの引用で当時の状況を想像したいと思います。   (長文になります。)

 

★『わたしの解放』-辺境と底辺の旅- 著者:富山妙子(1972年初版 筑摩書房

★著者の紹介(「富山妙子画家 ホームページ」から)

1921年 神戸市に生まれる。ハルピン女学校卒業後、単身帰国し女子美術学校(現女子美術大学)に入学。その後中退し、「美術工芸学院」で学ぶ。自由美術家協会会員(1950~) 児童画、鉱山や炭鉱をテーマとする油彩画、版画、インスターレーションなど多くを制作し、各地域で個展を開催。

2021年ソウル延世大学博物館にて「記憶の海へ―富山妙子の世界」展を開催。6月に韓国政府より「大韓民国国民褒賞」受賞される。絵画とは、生きるとはを問いつづけながら戦争責任を訴えて各国を巡り、現在100歳を迎える。

 

★(本の引用から)著者が見た、戦争へと突き進む日本政府。

*少女時代は家族と旧満州、大連とハルピンで過ごす。

<「満州」とは、日本が中国領土を侵略して植民地とした国であり、人口三千万の大部分は漢民族であった。満州民族はそのうちの約八十万だが、中国東北に住む中国人全体を「満人」と呼んでいた。・・中国東北より南を「志那」と呼んでいた(当時の呼び方)> (3頁)

 

<大連の良い場所はすべて日本人が占め、中国人ははずれの、きたない志那町に追いやられていた。大連の港町には船に豆粕を積み込む中国人労働者が一万人余り働いていた。一日働いてもやっと飢えをしのぐ程度の低賃金のため、たいていの人はひどい栄養不足と、激しい労働のため平均寿命は三十代といわれていた。>(10~11頁)

 

<あるとき、近所で日本人の奥さんが満人のボーイに殺された事件があった。「あの奥さん、いつもボーイをひっぱたいたり、ずいぶんひどい扱いをしたんですって、カーっとなるわよね」・・子供の眼はありのまま素直に現実を見ようとしているのに、つねにそれを狂信的にゆがめてしまうのは、体制的な教育や教師たちであった。・・新聞には火事のとき「御真影」を守って焼け死んだ校長の美談がのっていた。生徒たちはひそひそとささやく。「写真なら焼き回しができるじゃないの」「ちがうわよ。あれは普通の写真とちがうのよ。文部省からタマワッたのだって」・・いつしか私たちの心にタブーが育った。> (13~14頁)

 

<かつて父は画家志望だったが、家庭の事情で目的が果たせなかったため、私が本気で絵の勉強をするつもりなら、場合によってはパリへ留学させてもよいという。女子美術卒業、パリ留学、文部省主催の官展特選という画家にとっての出世コースが、父の頭のなかに作られていた。・・「女学校の身で基礎もできていないのに、マチスピカソだとわけのわからぬ新しい絵の真似をしたがる」・・わたしはだまって聞き流した。・・東京さえゆけばあとはこっちらのものだ。‥パリ―・・・ハルピン駅を出発した満洲里行きの列車が・・シベリア鉄道に接続し、やがてヨーロッパに入るのだろう。私は自分の未来を追うように北満鉄鉄道の列車を見送った。>(22頁)

 

                                                                                                   ⓶へ、つづく