思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

戦後-炭鉱に絵画のリアリティを求めて―画家 富山妙子氏の著書から ⓶

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<著書の内容より>

①東京の美術専門学校に入学。1941年 真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入し4年後に敗戦

1932年 日本が強行に「満州国」を建立。その年に女学校へ入学する。 

1938年 ハルピン女学校を卒業後、単身で日本に帰国。女子美術専門学校に入学するが中退し、「美術工芸学院」で学ぶ。戦時下で東京も物質の窮乏と自由が失われていた。

A君と知り合い、平等であることをタテマエとし、姓名も変えずに友情によって結ばれる結婚生活。子どもは著者の戸籍に入れる。その関係も徐々に変わり通じ合えぬ深い溝ができた。その頃友人のB君との関係が深まり冷却期間を考え、A君の知り合いを通して寒村に疎開した。村では麦が盗まれたと噂が広がり、疑われるのは底辺にいるヨソ者、疎開者、序列の一番下に朝鮮人がいた。東京の友人たちと別れて孤独であったがB君が追いかけてきて一緒に住むようになり、A君は別れることをやっと納得した。寒村で生きるのに暮らし方も変えざるを得ない状況だった。1945年8月15日に終戦となる。敗戦の翌年、わずかの持ち物を現金に換えて子供と3人で東京にもどる。

 

敗戦後に生活の糧として売る絵を描いていたが、一人で生きる画家への道を選ぶ

間借りした部屋の縁側に七輪と流しをすえ、井戸から水を汲んできて炊事。隣室の柱時計の打つ音を数えて時間を知り、空箱を部屋の隅に並べて家具とし、一組のフトンに親子がくるまって寝るという貧乏などん底のなかに、B君との子供が生れた。5年が経ち絵のアルバイトで生活ができはじめた時、B君が親戚の後援でフランスに絵の勉強にゆくという。戦後生活の重圧で2人は別々の道を進むようになる、毎日話し合ってもズレが次第に大きくなる。意見の食い違いで悩み苦闘する。B君が求めるのは男たちが愛と献身をささげる「永遠の女性」と呼ぶ姿である。著者が求めた男性とは一つ一つの課題を共に考え、同じ価値を見出そうとする平等な同志であった。 「ひとりで生きる決意をしたとき、大きな手術が済んだあとのような満足感があった。しかしそれと同時に、二人まで父親を失くした子供の人生を考え、孤独という後遺症の傷がいた。心のどこかにぽっかりと大きな空洞ができたようだ。」(81頁)

 

炭鉱に絵画のリアリティを求めて、鉱山を描く決意

3度の食事にありつくため、馬車馬のように絵描きができる仕事をしてきた。5年経ったある夏、宮城県で数日間過ごした。創造の根を観念的なものに求めていたが、敗戦後の飢餓的な暮らしから人々の生き抜く姿に共感し、「鉱山を描こう」と決意する、日立鉱山の見学や写生に出かけていた。炭鉱記者が北海道の炭鉱を描くようにとの好意から、各地の炭鉱を回れる便宜が得られ、初めて冬の北海道に渡る。列車の中で昨夜、落盤死した赤平の若い炭鉱労働者の話を聞く。 「炭鉱が夕暮れの中に現れ、雪の中に立つ三角形のズリ山には飾りのように点々と電灯がともり、小さなトロッコが山頂に登ってゆく。山の斜面いっぱいに並んだ坑夫住宅のまばゆい灯の列—・・炭鉱風景であった。」(90頁)

1953年 北海道の炭鉱をテーマとしてはじめて個展を開いている。そのあと「炭鉱新聞」から特派員として不況のヤマをまわってはとの話になる。北海道の炭鉱は会社側から見たもの。今度は労働者の側に立ってヤマを見るため、福岡の「筑豊炭田」に行くことになる。   (つづく)

 

<備考>

冒頭の写真:夕張市水沢地区当時の状況。写真の掲示から。

2枚目の写真:三笠炭鉱 当時の夜景。写真の掲示から。

3枚目の写真:工夫住宅(6棟割長屋) 制作の写真掲示から。

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アートを通して、夕張、三笠の閉鎖した炭鉱町を観て歩き、当時の炭鉱労働者の悲惨な暮らしを、特に住宅から想像でき心に残っています。(社員住宅は安定した場所に建っており、風呂や居間など生活の環境が整っていますが、炭鉱工夫の住宅はズリ山の斜面に沿って6棟長屋が建ち並び、風呂もなく隣の音が筒抜けの住宅環境です)