思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

「もう一人のミギシコウタロウと節子と」 ②

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<節子の好太郎への思い>
好太郎が病死したのは息子の黄太郎が4歳の時、好太郎は長男に「巴里」と名付け、出生届も出していなかった。それを知って節子は、好太郎が好きだった黄色から、好太郎と同じ名前の黄太郎と名づけて、届けています。(これを聞いた黄太郎は、何を感じたか、母親の思いを強く感じたのではないかと思います)
 
節子は子どもたちが自立し、40歳を過ぎてから5年間ほど洋画家・菅野圭介と別居のかたちで再婚していますが49歳の時に離婚しています。離婚後、好太郎が憧れていたフランスに渡たり、その時に涙を流していた、と黄太郎は思い出しています。
あんなにフランスに憧れても渡仏できなかった、好太郎を思っての涙でしょうか。
 
日本に戻って62歳の時に、散らばっていた好太郎の遺作品を収集し、夫が育ち原動力となった北海道に220点を寄贈し、現在は北海道立三岸好太郎美術館に所蔵してあります。
好太郎への愛と才能を見続けた節子の強い思い。身を削るような働きかけと強い意志がなければ、天才といえども好太郎は果たして世に出たか、節子の確固たる姿勢が実現させたのでしょう。
節子あっての好太郎だと思うのです。母親の偉大さを黄太郎は身近にいて感じていたのではないでしょうか。
69歳にフランスの田舎に移り住み84歳に帰国し、大磯に定住して描き続けました。尾西市の生まれた跡地に、三岸節子記念美術館を開館したのは93歳の時です(現在は一宮市)。人生を絵と人を愛することに懸けた三岸節子は、老木「さくら、さくら、さくらが咲いた(100号)」を、情念が湧きあがる作品に仕上げて、94歳に亡くなりました。(「花より花らしく」を参考に)
 
三岸節子の本の紹介>
 
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「花より花らしく」三岸節子著(ちくま文庫):著者のエッセイ集:情熱を傾けて、
女流画家として苦難の道を切り拓き、1994年に、女性洋画家として初の文化功労者に選ばれています。
 
 
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炎の画家三岸節子吉武輝子著(文藝春秋):著者の紹介から、「没落してゆく旧家の令嬢に
生まれながら、三岸好太郎との修羅の生活。偏見と蔑視に抗って、大輪の画家になった女性の波乱万丈の生活」。
 
 
 
<黄太郎の画風>
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黄太郎は家族と母節子とフランスに移住し、風景画を描いています(南仏カーニュ。ブルゴーニュの農村ヴェロンなど)フランスの田舎風景を節子も描いていますが、黄太郎は、よりシンプルな表現です。
例えば、『冬の太陽』は、画面の下半分以上をワイン色で一面に塗って、その奥に小さな2つの家と2つの樹のイメージを配し太陽が浮かんでいる、それだけの景色です。暖かく静かな絵です。
 
父好太郎の「オーケストラ」は、ひっかき線の技法で有名ですが、黄太郎も、「林」の作品にひっかき線を入れています。白色の多い、薄暗いブルーと黒の色彩を背景に、ひっかきだけで木のイメージを描いていますが、私は北海道の風景を感じました。外国の風景を描いても、詩的な表現は国を超えて心に響くのでしょう。父の好太郎の絵には、ポエージを感じる作品も多くありますが、どこかで、繋がっているように思います。
 
洋画家一家で共通した技法と色彩を重ねながらも、乱暴に分けるなら、父の好太郎は、黄色を基調とした強烈なイメージ。母、節子は赤色を胸に秘めた情熱的なイメージ。そして、黄太郎は影響を受けながらも、ブルーで表現する心のイメージとなって、静かな美しい独自の世界観を創りだしているように思います。
性格、生き方の対照的な両親、そして偉大な芸術家のもとに生まれた黄太郎は、悩みなながらも、到達した画風なのでしょう。心が引き込まれる特別展でした。
 
最後まで読んでいただきまして、イメージ 5
ありがとうございました。