思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<「掛川源一郎」展を観て、アイヌ文化を想う>

イメージ 1「札幌国際芸術祭」の赤れんが特別展「旧道庁れんが庁舎」の2階で★「伊福部 昭・掛川 源一郎」展が開催中です。伊福部昭氏は作曲家で釧路出身。曲作りの譜面、雪の結晶などの写真が展示してありました。アイヌ民族との関わりもあり、その影響を受けた曲が多く、そのひとつに、『ゴジラ』映画音楽を作曲した、あの力強い旋律、反復が今も耳に響いてきます。「赤れんが」特別展の掛川氏の写真は2回に分けて展示替えをし、懐かしい作品展でした。〔伊福部 昭氏は、200628日に、掛川源一郎氏は20071226日に亡くなっています。〕
 
 
 
また同時期に「北海道立文学館」の常設展。★「掛川源一郎の写真―風景の始源へ」も開催しており、928日迄です。
 
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(文学館:地下鉄南北線 中島公園3番出口~徒歩約6分。左側に建物)
 
掛川氏は室蘭出身。1950年代に土門拳が社会(問題)を提唱した「リアリズム写真(運動)に影響受けて約70年間、北海道で社会派カメラマンとして活躍していました。室蘭から近い、伊達(有珠)や日高地方のアイヌ伝統文化や、北海道の戦後の暮らしを撮影し写真集を出版しています。(『アイヌの神話』、『アイヌの四季』(更科源蔵との共著)、『大地に生きる』、『バチラー八重子の生涯』など。)
 
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戦後、掛川氏は伊達高校の教職のかたわら開拓農家の暮らしや、北海道アイヌ民族の伝統的な儀式・古式舞踊の写真撮影をしています。長い期間にわたって取材し、当事者の視点から切り取った写真には生命が宿っています。
 
 
 
●写真展で観た、アイヌ文化に生命を吹き込んだ数人をご紹介しましょう。
 
①バチュラー八重子(18841962)。伊達の有珠で生涯を終えたアイヌ歌人・キリスト伝道者。ウタリ(同胞の意味もあるようです)のために悲しみ、訴え、祈り続けたコタンの歌人、47歳時に(『若きウリタに』を出版。
向井八重子は伊達のアイヌ豪族の家で出生。11歳に父親が亡くなり、22歳時に聖公会宣教師のジョン・バチュラー夫妻の養女になって、平取や幌別で伝道活動しています。養父母死亡後も伊達(有珠)の人家がまばらな丘の上にチャペル兼自宅に住み続け、周囲には畑もありました。1954年頃、掛川氏は八重子が77歳で亡くなるまでの7年の間、出かけては写真を撮り続けていました。その後、1962年に東京と伊達で「コタンのマリア」展を開催しています。「掛川さんのおばあちゃんに、大きいカボチャと小豆を届けた」という内容の八重子の手紙があり、親しくお付き合いをしていたようです。
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当時のクリスマス会。
左側が、70歳を過ぎてからの八重子さんです。
ツリーもありませんが、暖かいストーブを囲んで、素朴で、ほのぼのした雰囲気が伝わってきますね。
掛川氏の撮影。ポストカードから、)
 
 
 
山本多助19041993)釧路出身。父母の会話はアイヌ語、学校では日本語の中で育ち、20代の後半に樺太の古老から、アイヌ口話伝承を聞き取ってノートに記したのがアイヌ語樺太方言の資料として残っています。妹は伊賀ふで。詩集アイヌ・母(ハポ)のうた』を出版しています。ふでの娘はアイヌ模様刺繍家、チカップ美恵子。昨年の2月に近代美術館で開催した「AINU ARTアイヌアート)―風のかたりべ」展を観て、チカップ美恵子さんの布の刺繍アートは本当に美しい。その他3名の現代作家の布や造形作品は、心に語りかけてくる展示内容でした。また、見事に刻み込まれたアイヌ民族の信仰儀礼の祭具、服装、生活具なども見応えがありました。(チカップ美恵子さんは201025日に亡くなっています)
 
知里幸恵19031922)登別出身。祖母はアイヌ口承の叙事詩「カムイユカラ」の謡い手だったので、幸恵は女子職業学校に学び『アイヌ神謡集』を出版したが19歳で亡くなっています。この書物は絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族アイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたと言われています。幸恵の弟、知里真志保は現、室蘭栄高等学校を卒業し役所に勤めていましたが、金田一京介宅に身を寄せて現、東京大学を卒業後、北海道大学の教授になり、金田一に師事し、「分類アイヌ語辞典」を刊行しています。  (文章類は、写真展を参考にしました。)
 
アイヌ文化から思うこと。
 
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ハルニレは北海道のどこでも見られる樹木で、大きく枝分かれして広がっています。ハルニレはアイヌ語で「チキサニ」と言い、「我ら、火をつけるもの」との意味があり、神話ではアイヌシモリ(人間界)に初めて火をもたらした樹木とのこと。木の精霊でもあるチキサキ姫の女神と、カンナカムイ(雷神)との間に生まれたのがアイヌラックル(人間臭い神様)で、ハルニレ(チキサキ姫)は、息子と人間を守る木になったのです。
 
アイヌ文化は約800年前に成立していると言われています。伊達市にもアイヌ民族の村(コタン)にありますが、特に有珠地区に多く、アイヌ民族の博物館「アイヌ記念館」があります。昭和新山の近くなので、そのうちに行きたいと思っています(電話:0142-75-2053 有珠郡壮瞥町昭和新山184-11 交通機関道南バス)。
 
江戸幕府末~明治時代にかけて急速な近代化への開拓事業が行われました。伊達市宮城県からの移住者が多く、開拓された土地です。仙台藩は伊達家を中心に、明治2年頃に胆振国有、伊達の開拓に許可が下りましたが、アイヌ集落から離れた場所を開拓し、アイヌとの友好な関係が成立していたようです。仙台から移住した祖母たちは、アイヌ人は親切で、よく魚や野菜類を届けてもらった、と常に話していたことを思いだします。
 しかし、明治以降の蝦夷地に日本人の移民、それに伴う強制的な同化政策アイヌ民族の文化や言語が失われ、豊かに暮らしてきた固有の文化が急速に失われていきました。民族としてのアイデンティティの喪失です。後から北海道に移り住んだ人は「和人としての奢りがないか」を内省し、歴史の過ちを見直してアイデンティティ回復への責任があるのだと思います。19日の「北海道新聞」社説によると、昨年10月の民族の「生活実態調査」結果では、道内に16,786人暮らしているが、事情で名乗らない人も相当見られるとの記事が載っていました。」
 
<最後に>
萱野 茂著「カムイユカラと昔話」に、平取町二風谷を流れる沙流川領域でカムイユカラ(アイヌ語叙事詩)や昔話が多く語り継がれたと記しています。それらを参考にした内田一成氏の著書、「チキサニ:巨きなものの夢」の小説を電子版で読んだので最後の分を少し、引用します。「チキサニ:巨きなものの夢」はゲーム作りの中で、心の空白を埋めるため北海道へ旅をして日高に辿りつく内容。アイヌ文化や言語が分かりやすく書かれています。地形や植物、気候など険しい登山情報にも非常に詳しいです。
 
『・・順調に産業を発達させてきて、みんなは幸福になれた?アイヌたちは何千年、いえ、何万年もの間、豊かな精神を育みながら、幸福に暮らしてきたのよ。かれらは、人間は自然の一部であって、自然から切り離されては存在できないということをよく理解していたから。アニミズムは遅れた原始宗教なんかじゃなくて、人間が何万年もかかって育んできた知恵なのよ。あらゆるものに対する畏敬の念が自分たちを幸福にするという。・・』   (アマゾン電子版、位置NO.5511から引用)
 
      ★長文を読んでいただきまして、ありがとうございます。