思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・、④<札幌で啄木は野口雨情と出会う>

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明治40914日、石川啄木は札幌駅の北側にある田中下宿に住み、16日の午後「北門新報」に出社。宿直室で伊藤和光と2人で校正をすることになった。一方、野口雨情は同じ年の7月に坪内逍遥の紹介で札幌にある「北鳴新聞」に入社している。札幌駅の南側にある、バラック式平屋建ての花屋に下宿していたので駅を挟んで啄木の下宿からは近い位置にある。雨情は与謝野鉄幹主宰の新詩社「明星」に発表していた啄木を知っており、啄木も雨情が新体詩をつくる人と名前を知っている。雑誌で札幌の北鳴新聞にいる情報を函館で得ていた。二人は札幌で3回ほど会い、101日に共に小樽の「小樽日報」に入社する。

<啄木からみた雨情の印象>

イメージ 2923日夜:小国君の宿にて野口雨情君と初めて逢えり。温厚にして丁寧、色青くして髯黒く、見るから内気なり。共に大に鮪のサシミをつついて飲む。・・気障も厭味もない、言葉から挙動から、温和いづくめ、丁寧づくめ、謙遜づくめ。デスと言わずにゴアンスと言って、其度 些(ちよい)と頭を下げるといった風。・・イをエと発音し、ガの濁音を鼻にかけて言ふ訛が耳についた。
<啄木の日記(明治40年)、悲しき思出から(明治41年)から>



925日夜:野口君を訪ひ、・・大いに談じ、一時帰る。
927日午前:北門社にゆき、村上社長に逢ひて退社の事を確認し、編輯局に暇乞す。帰途野口君を訪へるに、小樽日報社主筆たる岩泉江東に対し大に不満あるものの如し。朝来の雨遠雷の声を交へて いや更に降りつのりて・・午後410分諸友に送られて俥を飛ばし、汽車に乗る。(小樽へ、啄木の日記から)

<雨情からみた啄木の印象>

イメージ 3●(ある朝、啄木は下宿花屋を訪ねる)「啄木は赤く日に焼けたカンカン帽を手に持って洗い晒しの浴衣に色のさめかかったよれよれの絹の黒っぽい夏羽織を着て入ってきた。時は10月に近い・・・浴衣や夏羽織では見すぼらしくて仕方がない。・・・頭の刈り方は普通と違って一部の丸刈りである。『煙草を頂戴しました』・・『実は昨日の夕方から煙草がなくて困りました』・・『いや売ってはいますが、買う金が無くて買われなかったんです』と、大きな声で笑った。こうした場合には啄木は何時も大きな声で笑うのだ、この笑うのも啄木の特徴の一つであったろう。




●(北門新聞記者の小国から電話があり、啄木一家が東16条に引越しするので一緒に来てくれと言われて、雨情は豚肉を買って夕方過ぎに訪ねている。)「藪の中の細い道を・・啄木の所へ着いた。行って見ると納屋ではなく厩である。馬がいないので厩の屋根裏へ板をならべた藁置き場であった。・・薄暗い中を『危険(あぶな)いから、危険(あぶな)いから』と言いながら先に立って上がってゆく、・・」これが札幌で二度目に啄木に会った印象である。(野口雨情 郷愁の詩とわが生涯の真実から)

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(東16条とは?第二農場から、もっと
東の方面?になる。これは当時の開拓農場、厩の風景を再現,
(北大第二農場で撮りました)







啄木の日記と雨情の思い出に違いが見られる。雨情の直孫、野口不二子著「野口雨情伝」を読むが、雨情からの引用で同じ内容になっている。野口不二子氏は、「金田一京介によると『雨情の記憶は詩人の幻想による誤謬が多い』といわれるので、信憑性があるのは啄木のほうかもしれません。」とあるので、詳細な啄木の日記から状況を確認すると、
  札幌で2週間の滞在中に、啄木は一家と暮らしていない。
6年程は札幌で暮らしたいと日記に書いてあるが、921日の朝、妻子が小樽から下宿に来て同居の話をし、夕方には帰っている。23日に小樽日報創設の話が持ち上がり、24日の朝に「小樽せつ子へ来札見合すべき電報を打てり。」とある。啄木は校正係同僚の伊藤を「和光君は顔色の悪き事世界一、垢だらけなる綿入れ一枚着て・・声は力なきこと限りなし、・・戦はざるに先づ敗れたるものか。」と日記に書いている。
雨情は啄木について30年後に書いている。北門新報の校正係が2人いたことで勘違いもあるのでは推測もする。啄木が生きていたら、「雨情君、私ではないよ・・あははは」と笑うかも知れない。

<道内の新聞社>

啄木の『悲しき思出』に「札幌には新聞が三つある。」啄木の日記にも道内の多くの新聞社名が出てきます。「北海道新聞のルーツ」を見て、新聞社の歴史的な経緯が分かりました。太平洋戦争の開始後、1942年(昭和17年)に国家総動員法・新聞事業令に基づいて新聞統制が始まり、国家の要請により道内の新聞社を一つにせよとのこと。新聞社の流れから11ヶ所の新聞社を統一して、北海道新聞社が誕生しています。これに反対や独立するものの存在は許さない、というお達しです。国からの伝達を流し方針に勝手なことをいうものは容赦しないという、戦争国家の姿勢で政府に反対する新聞社を潰すことになります。このことは戦後70年が経過した今の時代にも言語統制のような空気も感じる、気になるところです。

さて次回は小樽での出来事、啄木と雨情の交友関係に何が。
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