思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・、⑤<啄木と雨情は「小樽日報社」に入社>

★札幌で2週間ほど過ごした啄木の足跡を紹介していますが、ブログを終えることができない、道内を放浪していた啄木を、もう少し見たい、そんなことで続けることにしました。

石川啄木が北海道で移動した足跡を伝記的年譜からまとめる。
                  (石川啄木全集八巻 伝記的年譜より)
①函館(明治4055日~913日(再上京前に滞在:明治4147日~24日)
②札幌(明治40914日~927日)
③小樽(明治40927日~明治41119日)(岩見沢駅に転勤していた義兄宅で
  1泊し、旭川に下車して北海旭新聞を訪問。翌日出発して夜釧路に到着)
④釧路(明治41121日~45日)(45日~海路で函館へ)

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明治40101日:啄木23歳、雨情25歳の二人は小樽日報に出社して編輯会議に出る。白石社長、岩泉主筆の他7名が参加。岩泉は札幌の北鳴新聞で雨情の上司だった人で、雨情は信用していないようであった。啄木と雨情は3面記事を担当することになった

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啄木が見た小樽の風景。右の写真の○で囲んだ建物が小樽日報社。駅から近く右の方に位置しています
   (「市立小樽文学館」の啄木コーナーに展示してあり、写真撮影が可能で掲載の許可もいただいています)
下の写真が、現在の小樽日報社の跡地です。

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新聞社があった場所に、本間医院のビルが建っていました。駅から、小樽文学館からも、徒歩圏内です。

隣は老舗蕎麦屋 藪畔(やぶはん)、けっこう混んでいました。蔵戸前の板間席もあり、落ち着いた雰囲気です。

  
                 
啄木は「小樽のかたみ」に小樽の風景を書き、札幌と対比しているのが面白い。「・・僅かに三十年にして人口既に十万を数へ、・・商工としては・・北海道第一位に上り、貨物集散の頻煩と人口の増加率とは多く其比を見ず。」「札幌は風物の静けさに圧せられて、やはり静かにゆったりと歩く・・」、「小樽は・・強い活動力をもっている。されば小樽のひとの歩くのではない、突貫するのである。・・男らしい活動の都府と呼ぶ。」 


102日に啄木は妹・光子を義兄宅に残し、妻・節子、1歳の京子、母・カツと4人で花園町にある、南部煎餅屋の西沢善太郎方に間借りをする。917日頃に家族は函館から出て小樽の義兄山本千三郎宅に滞在していた。

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現在の住所は小樽市花園3-9-20。「味処た志満」が営業している。当時、啄木は2階の6畳、4畳半に引っ越し、襖の隣には姓名判断の看板を立てた先生が間借りしていた。藪・・先生と揶揄するが、初号に姓名判断の記事を頼んでいる。(116日、同じ花園町に8畳2間一軒屋を借りて転居している)
店の2階に案内していただいた。当時のものが残っているのは写真にある2本の柱とのこと。2階の畳席とイス席の利用には予約が必要らしい。

啄木は103日の日記に「野口君と予との交情は既に十年の友の如し。遠からず共に一雑誌を経営せむことを相談したり。」この頃、志を一つにする数人が啄木宅に集まって豚汁をすすりながら新聞社の将来を語り合い、雨情も雑魚寝して帰るほどの親しい関係になっていた。

★考えの違う主筆岩泉江東の排斥を啄木と雨情たちは内密に企てていたが、10月中旬の初号発刊日に、その企てがわかってしまう。
啄木は野口君は主筆岩泉と内通していると怒り、2日後には数人に伴われて雨情は啄木に謝罪し和解している。野口不二子著「野口雨情伝」より、「しかし雨情は、それを誤解だと訴えることはしませんでした。みんなのために東奔西走したのにと憤慨したけれど、そうなってしまってはむしろ、やることはやったと達観していたのでは・・雨情は寡黙で争わない人でした。」) 雨情は謹慎後、1031日に小樽日報社を退職。記者としての新鮮な意欲は、たったひと月で無残にも終わってしまう。雨情の心情を考えると、この辺の行き違いは痕を残すような出来事であったと推察できる。啄木の日記に「野口君遂に退社す。主筆に売られたるなり。」とある。(野口雨情は退職後も家族と小樽で暮らしている) 

★小樽日報の3面を担当していた雨情は「樺太の露人」紀行文等を掲載している。啄木は「初めて見たる小樽」が最初の記事になり、明治4012月16日頃まで(正)日報に75編の記事を執筆している。(岩城之徳氏の整理から) 啄木は記事を切り抜き帳にして「小樽のかたみ」と表題を毛筆で残している。

★札幌に行き、12日の夕方小樽に戻って日報社に立ち寄った啄木は、事務長の小林寅吉と口論になり叩かれて退社を決心する。社長に辞表を送り13日より出社していない。20日に社長から辞意を受ける手紙があり、21日の新聞に退社の広告を出して辞めたのである。
12月30日に社に出かけて、12月分給料の日割1660銭と慰労金10円から前借金を引いて1060銭。煙草とハガキ百十枚を買い、僅か8円が残る。貧しい年越、正月を迎えるが、1229日に娘・京子の誕生祝で新鮭を焼いたり、煮たりして一家で晩酌を共にしている。苦しい生活の中でも読書をし、友人、知人と行き来しながら次の職場を探している。(啄木の日記では毎日のように手紙が届いているが、啄木は筆まめのようである。)


釧路新聞社に勤務が決まり、旭明治41119日に単身小樽駅を発つ。雪が停車場に吹き込む寒い朝、京子をおんぶして見送る妻の不安な思いと、家族と離れる啄木の気持を表現したという

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 小樽駅正面の左側に、三角市場があります。
 その階段を上がった場所に歌碑が建っていまし
 た。
 
 啄木は小樽から離れたくないと書いています。
 真冬の小樽に妻子を残して去る啄木の想いと情景
 が重なって見えるようですね。
 

<訂正>
 明治41年1月19日(誤)→明治40年12月16日頃まで



次回は「小樽日報」退社後の啄木と雨情について。