思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・、⑥ 啄木は単身で釧路へ>


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(街の中心部を流れている釧路川に架かっている橋を紹介しますと、前から「久寿里橋」、「旭橋」、JR鉄橋。手前にある茶三角屋根の黄色い建物の前に「幣舞橋」があります。)

釧路駅北大通「幣舞橋(ぬさまいはし)」は明治33年頃にできた橋、啄木も雪を踏みしめながら橋を歩いたでしょう。現在の「幣舞橋」は昭和51年に釧路にふさわしい新しい橋と改造し、翌年には欄干の台座に「道東四季の像」4つの彫像を建てています。

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舟越保武作「春の像」 佐藤忠良作「夏の像」
柳原義達作「秋の像」 本郷新作「冬の像」

夕陽に映える彫像をぜひ観たかったのですが、当日は夏の曇り空、「夏の像」をアップしますね。









橋を渡って右側の釧路川沿いに、2階建レンガ造りの(旧)「釧路新聞社」がありました。現在の北海シェル石油ガソリンスタンドが跡地のようです。その辺り大町2丁目に原寸大の社屋を復元したもので啄木の資料館「港文館」が建っていました。1階は喫茶、2階が展示コーナーで当時の新聞社周辺の写真や啄木の交友関係、写真、短歌、直筆の年賀状などが展示されています。


さて、明治4119日、小樽日報の白石社長から釧路新聞社の打診があり、啄木は入社することに決める。小樽を発つ前に雨情と会っている。
115日「野口雨情君が久し振りに来た。・・東京へ帰るつもりで、それぞれに手紙を出したといふ。」
雨情は1031日の「小樽日報」退社後も妻のヒロと3歳の長男雅夫と小樽で暮らし、上京する手だてを模索していた。直孫野口不二子氏の「郷愁と童心の詩人「野口雨情伝」によると、315日に長女ミドリ子が誕生しました。・・ミドリ子は風邪をこじらせて生後八日にして夭折してしまいました。」
雨情は精神的、経済的にもどん底の状態で辛い時期であったという。

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<訂正>(正)

「さいはての下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき」


「さいはての駅に降りて立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」




啄木は121の午後9時半、後に貨物駅になる浜釧路駅に一人で降り立った。
停車場から十町許り、迎えに来た佐藤国司氏らと共に歩いて、幣舞橋といふを渡った。」現在の釧路駅から徒歩10分ほどにある「幸町公園」傍の駅跡地に啄木の歌碑が建っていている。道路を挟んで前には現在の北海道新聞 釧路支社があったので啄木に関しての資料がないか受付嬢に訪ねたが、平成5年の啄木資料館「港文館」開設時に提供したようである。歌碑の辺りで啄木像がないか、前を歩いていた男性に伺う。「すぐそこの、市役所の職員ですが前の方に何か彫刻がありますよ。」啄木ではなかったが写真に収めてきた。

217日の日記から、「珍しくも野口雨情君の手紙に接した。」(啄木の日記で、雨情との文通記録は少ない。)
啄木は217日付で、雨情に長文を送り「喰はねばならぬ余儀なさにこんな所までまゐり候ふものの、・・あまり東京病を起さず候」と、上京への心情を綴っている。
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「釧路に来て40日は本を手にしたことは一度もない。酒に親しむことだけは覚えた。・・芸者といふ者に近づいて見たのも釧路で初めて・・心には淋しい影がさす。然しこれは不可抗力である。自分は釧路に於ける新聞記者として着々なんの障碍もなしに成功している。」啄木は記者として社内外から認められていた。この間、芸者小奴との交流もある。啄木は小奴の想いに(「妹になれ」と自分は言った。小奴は「なります」と無造作に答えた。) 釧路で淡いロマンスが生まれている。

322日の日記に石川を酔わせて、僕と小奴の間に難問第一施さんとして、何と浅ましい世の中だろう。」「年若い者を妬むとは何事だ。自分の性格と釧路新聞とは考えが一致しない。詰らぬ」
何かが不明だが、この事が新聞社を辞めるきっかけになっている。24日~28日頃まで会社を休んでいて、白石社長から「ビヨウキナオセヌカ」との電報で新聞社を辞める決心する。
何としても東京に行かなければと海路での函館行きを計画し、小奴に金を貸してほしい旨の使いを出すが出来ないとの返事で、釧路病院長から15円借りている。42日の午後に桟橋に向かう。天候や酒田川丸の積荷の都合で5日の8時にやっと就航。宮古港湾を回って47日に函館に到着する。(釧路新聞社の上司には家族に関する要件があると手紙を送り、下宿の家賃などの処理は不明である。)

函館で8日間滞在し、友人たちと親交を温め、宮崎郁雨とは東京行きについて話し合う。家族を宮崎家に残して啄木は数ヶ月東京で暮らすことになる。宮崎は啄木の妻、せつ子の妹と結婚している(★当時は独身で、節子の妹、堀合ふきと結婚したのは、明治42年10月26日。★日記に沿って妻の名前をせつ子としていたが、以後は節子に。)節子は啄木のもとに上京するまで函館の宝小学校の代用教員として勤めている。


啄木は413日に家族がいる小樽に行き、14日には雨情と会い、共に津軽海峡を渡るような話もしている。 小樽で6日間を過ごし、明治4119日に家族と函館に戻った。

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<野口雨情の来道について>


雨情は明治35年に、東京専門学校を中退して北海道を旅行している。野口不二子氏の著書によると明治397月頃に「報知新聞」の樺太通信員として小樽港から樺太に渡り、11月頃に帰郷。雨情は啄木と出会う前から北海道の風景を見ていた。

啄木と別れてからも何度か北海道を訪れている。
明治44818日~912日まで、大正天皇が皇太子であった時の北海道行啓に、『グラビック』の報道記者団に加わり、釧路滞在中に芸者の小奴と会っている。
昭和15年頃にも釧路に一週間滞在しており作品を残している。釧路信用金庫本店正面玄と、阿寒グランドホテルの正面の左側に歌碑が建立されているそうだが、後日に情報を得たので、残念だが釧路の旅で私は雨情の歌碑を見ていない。(釧路でも啄木と雨情はつながっていた・・、感慨深いものがあります。)

★次回、明治4055日啄木は故郷、渋民村(現在の盛岡市玉山区渋民)から函館へ。

8月5日:追記
明治40年5月5日に函館へ。啄木は函館で暮らす前に、義兄を訪ねて2度来道している。
明治37年9月30日 義兄の山本千三郎を訪ね函館~小樽を往復(詩集「あこがれ」出版、上京の 出費で相談)
明治39年 2月に義兄を訪ねて函館に滞在。(明治38年に詩集「あこがれ」を出版。父一禎が宝徳寺を追われて、啄木が一族扶養を担う。上京の想いや経済的なことを相談するが、渋民村の代用教員になる)