思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・、⑧<函館で、啄木は2人と深い出会に>



イメージ 2
 
 
明治4055日、函館では苜蓿社の同人4人が連絡船から上陸する啄木を桟橋で待っていた。「啄木が函館へやってき来て、僕たちの仲間入りをするなんて、まるで鶏小屋に孔雀が舞い込むようなものだな」宮崎郁雨が言い、仲間が笑う、心待ちにしていた出迎えであった。が、待ち人は現れない。啄木は妹を小樽の義兄宅に送るために、もう一つの鉄道桟橋を渡っていた。駅前の旅館で連絡を取り、苜蓿社のメンバーと会う。
 
 苜蓿社の主な中心メンバー、松本蕗堂は「明星」で啄木とは同人仲間。苜蓿社の看板を掛け溜まり場になっていた蕗堂の部屋に、啄木は2ヶ月程身を寄せている。
苜蓿社主宰を譲り受けた啄木は「紅苜蓿」の編集一切を担当している。啄木に家族がいること、無職であることを知った仲間は奔走し、啄木は働く場と青柳町に住居を構えることができた。
まず、岩崎白鯨の義兄の世話で啄木は函館商業会議所の臨時で働くことになった。(19日間で日給60銭)次に、同人年長の吉野白村は、啄木を弥生小学校の代用教員として世話をし、借家も探してきた。(月給12円、1ケ月余り学校に出勤したが、体調を理由に825日の大火まで休んでいる。)心配した宮崎郁雨が函館日日新聞社に取り次ぎ、啄木は818日より編集局に入ることができた。早速、月曜文壇を起こし次の月曜日に向けて編集していたが、25()の函館大火で新聞社は焼失し、退学届を出さないでいた小学校も焼けてしまう。職場を失い、札幌の北門新報社への校正係として紹介してもらい、132日間過ごした函館を去ることになった。その後も啄木に引き寄せられた仲間たちとの交友関係は続き、3回目の上京後も文通している。

 611日から啄木は弥生小学校の代用教員となり、77日に盛岡から妻子を迎え、82日に野辺地にいた母を迎えに行き同居。青柳町の民家を借り、仲間たちが家財道具を持ち寄って引っ越しをし、やっと家族4人が暮らせるようになった。日記に「・・友人八名の助力によって兎も角も家らしく取片付づけたり、予は復一家の主人となれり、」しかし、函館の大火でまた家族は離れて暮らすようになる。(阿部たつを著「啄木と函館」を参考に)

イメージ 3  「わがあとを追ひ来て
    知れる人もなき
     辺土に住みし母と妻かな」

柳町で、啄木が家族と2ヶ月余り過ごした住居の跡地があります。
当日は工事中で入れなかったのですが、この奥に住宅があったようです。
近くに「函館公園」があり、広場の北側(函館山方向)に、歌碑が建立されています。




<宮崎郁雨との出会い>
宮崎郁雨は新潟で長男として生まれ、2歳時に一家が没落している。4歳時に函館に渡り、味噌自営業の環境で育ち道立函館商業学校を卒業、後に軍隊に志願兵として入隊。明治3912月に「苜蓿社」に加わり、翌年の5月に啄木と出会い魅了され、節子夫人が啄木に仕える姿に感動している。啄木と郁雨は故郷から追われた境遇なども似ており、郁雨はまっすぐな性格で好人物と啄木は評価している。郁雨は2人のために物資援助を続け、啄木が亡くなる数ケ月まで暮らしを支えている。啄木に繫がりたい思いで、妹の光子を嫁に欲しいと何度か頼むが、啄木は断っている。郁雨の大家族状況や光子の性格などから難しいと考えていたのか。郁雨は明治4210月に啄木の妻節子の妹、堀合ふきと結婚する。
 郁雨が啄木夫妻を支えた原動力には父母の影響もあるという。「他人を喜ばせることのできる者は幸せだ。わしはその幸せが嬉しくてねじり鉢巻きで踊りたいくらいだ」という父親の口癖が自分の脳裏に沁み込んでいて運命を左右していると郁雨は語っている。また節子へのあこがれと、困っているのを助けたいという騎士的な思いもあったのではないか。
 啄木が第一歌集「一握の砂」の献辞で、「四十一の春以来、一年間、予をして餓ゑざるを得しめた金田一京助君と、予の家族を餓ゑざるを得しめた宮崎大四朗君(郁雨)とに捧ぐ」と、考えていた献辞を金田一は記憶している。       (山下多恵子著「啄木と郁雨」を参考に) 

★郁雨との関係については別項で書きたい。


<橘智恵子との出会い>
 啄木が函館の弥生小学校に勤める中で、3歳下の19歳になる教員橘智恵子と2度しか話し合っていない。その後も文通だけで、智恵子と会うことはなかった。当時は代用教員が正式な教員と会話を交わすような雰囲気ではなかったらしい。弥生小学校は函館の学習院ともいわれ、代用教員の啄木には渋民の時とは勝手が違い、理想を発揮するような場は無かったようである。
大火後の処理をし、911日に退職願いを持って校長宅を訪ねた時に応接間にいた橘智恵子から、実家は札幌で林檎園を営んでいると聞いている。翌日に智恵子を訪ね、詩集「あこがれ」を渡して2時間あまり過ごしている。その時に林檎園の場所を聞いていたのかもしれない。 啄木は14日に札幌に来てから、18日には函館で被災の後始末をしている智恵子に手紙を送っている。下宿先や職場などの近況を知らせたのだろう。

啄木日記に〔発信〕と〔受信〕の記録がある。明治414月に上京して、9ヶ月ほどは文通がなかった。年賀の挨拶か、明治4215日の日記に「もう一通の封書は、札幌なる橘智恵子さんからであった。・・・函館時がこひしく、・・なつかしくと・・かいてある。げになつかしい便りであった」。翌日札幌にいる智恵子に返事を出している。その半年の間に智恵子から3通、智恵子が入院した時に、母親から智恵子の病気の状態を知らせる手紙2通を受け取っている。啄木は智恵子の母に1通送り、智恵子には4通送り、智恵子の3月に退院したとの長い手紙に簡単な葉書を送り、その後の文通は途絶えている。明治4416日に、「橘智恵子からの手紙があった。否、北村智恵子からであった」と、智恵子が結婚したことを知る。(年賀状のようである)

イメージ 1

啄木が智恵子を「真直に立てる鹿の子百合」と、賛辞し、
日記に「あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり、さわやかな声!」と書いている。

智恵子を訪ねた翌日の日記には、
「さりげなく言いし言葉は さりげなく君も聴きつらむ それだけのこと」

画像は「札幌村郷土記念館の展示から)







イメージ 4










★次回は、啄木にとって橘智恵子の存在は・・。

イメージ 5
函館市文学館は、旧第一銀行函館支店の建物、その後ジャックス本社が使用し、函館市に建物を寄贈しています。平成5年に文学館として、1.2階が展示室。1階は函館にゆかりのある芸術、小説家の展示。2階のスペースが啄木資料コーナーで充実した展示になっています。銀行の金庫室だった特別室には、啄木の直筆も展示してあります。

(冒頭の画像)
啄木小公園の坐像と同じで、彫刻家本郷新作の原型です。


                                                                                  つづく