思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・、⑨<石川啄木が心を寄せた女性、橘智恵子>


明治4419日、啄木は「岩手日報」に発表していた中学時代友人の瀬川深に長い手紙を送っている。その中に、(北海道は僕の第二の故郷だ、・・そしてアノ「忘れがたき人々」の(二)に歌ってある人は石狩原野の中の大きい農牧場にゐる、札幌郊外の名高い林檎園の娘さんであったが、こんど来た年賀の手紙によると、去年の五月にその農牧場へお嫁に行ったさうである、過去一年間僕は向うから来た手紙に返事を出さずにゐた、そして今度初めて苗字の変わった賀正を貰った、異様な気持ちであった、「お嫁に来ましたけれど心はもとのまんまの智恵子ですから―」と書いてあった。・・思はずトンデモない事書いた、兎に角北海道はなつかしい所だ。)


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石狩の都の外の君が家
   林檎の花の
    散りてやあらむ

      「一握の砂」      


<智恵子の実家、橘家の直族4代目が現在も、この地住んでいる。>
 札幌地下鉄東豊線、東区役所駅で下車。出口3番から地上に出て、東区役所前を通り、北10条東7丁目の信号を渡って東に向かう。この通りは「元村街道」ともいわれている。4丁目ほど歩いて右手に「大覚寺」がある。大正9年に建てられた山門で桜の名所になっている。信号を渡り少し歩くとボーイスカウト集会場があり、その建物の奥まった所に歌碑が設置してあった。
 獣道だった元村街道沿いに、明治の半ばには林檎園が広がっていた。智恵子の父は明治17年に東京から移住して林檎園を経営し、林檎づくりの名人だったという。明治37年頃の写真家か、1階建ての玄関前で撮った家族写真に、枝ぶりの良い林檎の木が写っている。現在の建物は木造2階建の大きな邸宅で当時の面影を残している。(「札幌村郷土記念館」の資料から)

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   秋には、豆リンゴが実っていました。


 偶然に、橘智恵子の兄、儀一の直系で橘家四代目のお嫁さんに玄関先でお話を伺うことができた。最近も名古屋から訪れた方がいる。当時、啄木が訪ねた時には兄と母が対応している。智恵子は函館から戻って母校の小学校に勤めていたので留守だった(後の大通小学校)      
 兄儀一の息子さん橘忍氏は橘家の三代目になるが家族から聞いた話によると、二重マントを着た新聞記者が訪ねてきたが、後で石川啄木と分かったという。(先の資料から) 
 啄木は明治4091428日まで札幌に滞在しているが、この時期にマントは着ていない。小樽日報に勤めていた12月頃、よく札幌に出かけている。12日も無断欠勤で夕方に札幌から戻り、小樽の日報社に立ち寄ったところ事務長の小林寅吉と口論になっている。この時期に智恵子に逢いに来たのではと考えられる。


<啄木にとって智恵子の存在>
★啄木は智恵子に2冊の著書を贈呈している。明治385月出版の詩集「あこがれ」を函館で手渡し、明治43121日に出していた歌集「一握の砂」を、札幌に送り1224日のクリスマス・イブにその旨の葉書を書いている。歌集「一握の砂」の「忘れがたき人人」(二)22首は北村智恵子を想って詠ったものだと言っている。

智恵子は嫁ぎ先で産褥熱のため33歳で亡くなった。兄儀一が探していた啄木からの2冊は、7年後に智恵子の長男の妻が保管していたことを知る。智恵子は歌集「一握の砂」裏表紙の見返しに、啄木の葉書の2ヶ所に紙を貼って大事にしていた。兄儀一が紙をはがすと「君もそれとは心気付き給ひつらむ」などの文字があった。この歌は(智恵子を詠んだことに)、あなたもお気づきでしょう、という意味である。(「愛の旅人」シリーズ:2007年7月7日 石川啄木と橘智恵子 朝日新聞の朝刊B面の特販より)
 2人の想いを資料から拾い、想像を広げるならページ数がかさんでしまう。智恵子は理性的な女性のようであるが、啄木が恋に鈍感な女性を選ぶとは思えない。智恵子も悩んだのではないか。明治42年2月頃に智恵子は急性肋膜炎で入院し、母親は啄木に2度手紙を送っている。娘の想いを察して近況を知らせたい母親の気持ちを想像する。


★啄木は小説を書きたい。小樽にいた時も小説を書きたいと日記に書いてある。12月頃札幌に出かけたのは、札幌に新しい新聞社ができるという情報があったらしい。新聞社の設立がなくなり、勤めながら小説を書くという夢が消えてしまった。釧路を出奔して単身で上京し、友人の金田一京助と共同生活をしながら集中して小説を書きはじめている。明治4111月に新聞掲載の長編小説「島影」は成功したものの、その後は書いても取り上げられず、原稿を持ち込んでも戻ってくる、啄木は死にたいと思うほど生活が荒れていた。その頃にローマ字で日記を書いている。49日の日記に、智恵子からのハガキを見て「…人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい!そう思った。「・・・あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり!さわやかな声!」。そして翌日の日記には「死だ!死だ!わたしの願いはこれ・・」気持ちを吐露している。


啄木は「秋風紀」の中で、「札幌は寔に美しき北の都なり。・・・際立ちて見ゆる海老茶袴に非ずして、しとやかなる紫の袴なり。」と書いている。小説を書いても認められない、どん底で智恵子の存在は自分を鼓舞して小説を書く原動力だったのではないかと考える。




画像は「札幌村郷土記念館」イメージ 5

札幌村・大友亀太郎関係の資料館です。2016年は亀太郎が江戸幕府から開拓を命じられて着任150年になります。札幌の中心部に創成川が流れていますが、当時は亀太郎が計画した「大友掘」の水路です。記念館は啄木の歌碑がある近くに建っています(東区北13、東16)
2階に智恵子の写真や資料が展示してあります。記念館の玉井氏に資料をいただき、啄木についてお話を伺うことができました。


「平岸林檎記念歌碑」

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札幌市豊平区平岸に、天神山緑地(都市緑地)があります。その奥に啄木の歌碑が建立されていました。明治10年頃から平岸村も林檎を栽培し、南の澄川地区一帯に農家が林檎園を営んでいた、その跡地に、昭和41年に歌碑を建てています。東区と同じ歌が刻まれていました。桜、梅などの花は見事に咲きますが、林檎は歌碑の近くにあった豆リンゴがある程度です。平成26年には「さっぽろ天神アートスタジオ」がオープンしています。

次回は、啄木3度目の上京で。