思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・⑩ 啄木3度目の上京、金田一京助との暮らし>

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「犬コロの如くなって寒い夢を結んだ三河丸三等室に一夜、・・」函館、札幌、小樽、釧路へと流れ歩いた一年間の事を思い返している。「漂泊の一年間、モ一度東京へ行って、自分の文学的運命を極度まで試験せねばならぬといふのが其最後の結論であった・・」と、上京への覚悟を書いている(明治41425日の日記から)
明治414月29日 啄木は「赤心館」に下宿している金田一京助を訪ねた。4月から中学校の教師として勤めている。2度目に上京した啄木の姿とはあまりにも違っていた。「 茶の瓦斯縞(ガスじま)の綿入れに・・日和下駄の半分欠けたのを突っ掛けて、手荷物といのは、五、六冊の本の包み(実は、それは日記と自分の書いた新聞の切り抜きだった)を、弁当箱でも持ったように手に持っているだけだった。・・今度の石川君は、しみじみとして、気取りもなければ、痩我慢もなければ、見栄もなく・・真実心底が出てくる、本音のようなことばが口を出る・・」

金田一京助の観察:小学校に入学した啄木は4年生の金田一京助たちの中に入り込んで遊んでいた時のエピソードである。やんちゃで赤ん坊くさいことから、「石川ふくべっこさん」とからかわれていたので、皆に飛びかかって抗議していた。京助もつい、ぽっちゃりした、その両頬の上にある白い丸いおでこを人差し指で押し「このでんぴこ!(おでこの意)と言ってしまう。円い目をくるくるっとして、下唇を咬んで左右の糸切り歯を覗かせながら憤然と京助にかかってきた。どんどん壁まで押され、動けない京助を拳固で押したり、衝いたりしてやめない。「赤ん坊のような子だが、ばかにできない、手剛い子だな」との印象があり、京助は啄木の真剣さと負けじ魂で最後まで押し切った生涯をみてきた。啄木を空想家、鋭敏な感受性、余裕の人、自己に忠実な人と捉えて前半期と後半期の違いを著している。

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野口雨情の観察:札幌で会った時、煙草を買う金がないと言って大きな声で笑い、こうした場合に啄木はいつも大きな声で笑う。この笑うのも啄木の特徴の一つであったと、「野口雨情 郷愁の詩とわが生涯の真実」に書いている。(深刻な状況なのに、適当でいい加減な話し方で返してくる。傲慢な姿と見えるかも知れない。)
雨情の妻ヒロの観察:雨情の直孫、野口不二子著「野口雨情伝」の中に、ヒロが札幌から小樽に引っ越した時、手伝いに来ていた啄木と初対面だったが「啄木さんは小柄な人でしたが、色の白い目鼻立ちの整った、きびきびした鋭い頭を思わせる人でした 」結婚前のヒロは文学を志していたので、この観察力も鋭い。(啄木は状況に応じて、必要な人を選び自分の理想に向けて関係をつくっている。清々しいのは決して相手をモノとして利用していないということ。モノとは自分に益がある時は必要とし、次々と人を変えてゆくので心がない。啄木は真正面から向き合い、その人に合わせて付き合い、また理由によって関係を断っている)
啄木は北門新聞社で、校正係の同僚を見て:和光君は顔色の悪き事世界一、垢だらけなる綿入れ一枚着て・・声は力なきこと限りなし、・・戦はざるに先づ敗れたるものか。」と日記に書いている。(この時期は「漂泊の一年」、自分も負けるのではという不安と奮い立たせた言葉のようにも思う。それと、お寺の管理の不始末ということで、世から退いてしまった父親の姿がダブったのかも知れない。啄木は死が近づいたときに父に働いてくださいと頼んでいる)


<啄木の生きる処し方>
啄木に会った人は、それぞれのイメージで捉えていたと思う。啄木の日記、資料を読んで、最後の日まで辿ってみたい気持ちが強くなり、ブログの記事を続けている。

啄木は絶望しながらも余裕があり、状況を客観的に把握している。(ローマ字日記に赤裸々な描写で苦悩を書いている。澤地久枝著『石川節子』の中で、「啄木は己を見据える醒めた目と、逃げて自分を甘やかす黒い密とが共存している」と、この頃の啄木の精神状態をよく著している。) 他、自己をも批判し、また、みじめな状況を見て大きな声で笑い、切り替えて一歩前に進む。この姿勢は啄木の生きる処し方のように思う。人生を戦いながらねばり強く進み、深刻な状況の中でも一つひとつ真剣に取り組んでいく。このことが啄木を成長させて生き方も変わっていくようにみえる。啄木の生きる姿勢の転換期は、明治42年の10月、妻の節子が家出した出来事である。「喰うべき詩」の評論を「東京毎日新聞」に発表し、この後日記も休み、明治4341日から再開している。

金田一京助との共同生活、そして自然に疎遠>
京助との共同生活と交流が途絶えるまで、おおまかにまとめる。

明治414月末「赤心館」に啄木も下宿し共同生活になるが、下宿代が払えず追い出されて、9月に2人で「蓋平館」に転居。明治4231日「東京朝日新聞社」校正係として入職。616日啄木の家族が函館から上京し、床屋「喜之床)2階に新居を構える。102日に
節子は娘京子を連れて実家(盛岡)へ家出。(啄木は「あれを無くしては 私はとてもいきられない」と京助のもとに駆けつけて節子への手紙を頼み、啄木も送っている)。10月末に節子が戻り、京助は心配して訪ねている。12金田一京助は、啄木の取り持ちで見合になり静江と結婚する。明治43、啄木が京助をモデルにした未完成の小説を書いたので、京助は不愉快になる。その頃、京助も経済的にギリギリの暮らしだった。妻静子が啄木と関わるのを嫌がるので、啄木が訪ねてもよそよそしい対応になる。明治43104に啄木の長男が誕生し、27日に死亡。ハガキで知らせはあったが、京助は仕事が多忙で行かなかった。12月に発行した「一握の砂」を宮崎郁雨と京助に送っている。「・・これ往年の友情と援助とを謝したるなり。しかも金田一君はその為に送本受領のハガキを寄越さゞりき。」(しかし、関係が切れたわけではない。明治44421に京助は来て、すぐ帰っている。明治4437日、母カツが亡くなった時に京助は訪問している。京助は啄木の困った状況や願い事を断れないで動いてしまうが、家族を守ることもあり、2年ほど疎遠になっている。)

次回は、宮崎郁雨と義絶へ。