思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・、⑪啄木は函館の親友、義弟となった宮崎郁雨と義絶>



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  啄木が函館から上京し3年目、明治442月に慢性腹膜炎に罹って1ヶ月半入院している。315日に退院し「東京朝日新聞」に休業を届け出て自宅療養になった。93日の日記に「・・妻も母も寝ていた(病気)」 毎日熱が3738度以上ある中で啄木は体調を見ては歌を投稿し、読売新聞記者の土岐善磨と雑誌の発行を計画していた。しかし、出版社の問題で頓挫している。明治45119日の日記に「一日に十行の原稿紙へ一枚以上五枚位づゝ書いた。いくら努力してもそれ以上は書けなかった。」4編の「病室より」を、娘京子に投函させている。病魔と闘いながら安い給料を補い、家族の病気・薬の心配、金銭の工面を日記に書き綴り、220日で終わっている。(母カツは37日死亡、啄木は413日に死亡した。)

<不愉快な事件>
 明治44916日、啄木は妹光子に手紙を送っている。「・・お前の知ってゐるあの不愉快な事件も昨夜になってどうやらキマリがついた、家に置く、然しこの事についてはもう決して手紙などにかいてよこしてくれるな、・・」(石川啄木全集第七巻 書簡の368頁) 不愉快な事件とは、妹三浦光子が大正13年頃に新聞紙上に発表した明治44910日頃の出来事である。(大正11年に聖公会牧師、三浦清一と結婚) 戦後に啄木ブームが起こり、昭和22年の「啄木を語る座談会で」光子の夫が発言した内容が、翌日の毎日新聞「妻に愛人があった。悩みつつ死んだ啄木」と三段抜きの見出し記事でセンセーショナルに報道された。(西脇 巽著『石川啄木 不愉快な事件の真実』から。2015830日発行)

 昭和22年の「婦人公論」で、金田一京助が光子の見解は啄木を追い詰める「啄木の末期の苦杯」と批判したのに対し、三浦節子は23年に『悲しき兄啄木』で「節子の晩節問題」として反論。さらに39年に『兄啄木の思い出』に詳しく書いている。内容をまとめると、妹が上京して家事を手伝っていた時のことである。妻の節子が留守中に、節子宛ての「美瑛(びえい)の野より」という匿名の手紙が届いた。啄木は宮崎郁雨の手紙で、軍隊の演習場所が分かっていたので、軽い気持ちで開封したところ、「貴女ひとりの写真を撮って送ってくれ云々」と為替が入っていた。啄木は為替を破いて、戻ってきた節子に離縁するから盛岡に帰れと、かみつくように怒り「今までかういふこととは知らずに信用しきってゐた。今までの友情なんか、何になるか。それとも知らずに援助を受けてゐたのを考へると・・」 節子は泣いてあやまり、その日の夕方にトイレで髪を短く切った。妹の光子は「わたしが手紙を取りに行ってゐたら、こんなことにならなかったのにねぇ」と節子に言っている。その後の文章に「しかし節子さんはこれまでにも私にIさんもさうだったし、その他、あの人も・・」といふ風に、兄を取り巻く青年の事で彼女に好意をよせた人々の名をあげてむしろ得意気に話すといふ風がありました。」このような内容が書いてある。妹光子が知っている出来事として公開した内容である。(近代作家研究叢書77 監修:吉田精一の編集 三浦光子著「悲しき兄啄木」平成2125日に再発行)。

<義弟の宮崎郁雨と義絶した経緯>
 明治44910日頃の不愉快な事件の後、啄木は函館出身で上京していた丸谷喜市に相談し915日に解決を図っている。丸谷は函館の文芸雑誌「紅苜蓿」に投稿していた。郁雨との共通の友達である。真相の鍵を握ると言われていた丸谷喜市は関係者の事を考えて沈黙していたが、昭和44413日発行「大阪啄木の会」季刊誌(『あしあと』)に当時のことを発表している。相談を受けた丸谷は節子に書留を送り、また宮崎郁雨にも啄木夫妻の生活を危機に貶めるところがあるので、今後啄木家との交際ないし文通を止めてほしい内容の手紙を送った。郁雨から「フミミタ、キミノゲンニフクス」と電報があり、その後に手紙を送ってきた。丸谷は啄木に郁雨の手紙を報告し、その手紙の中に「幸い、貴兄は『プラットーニック云々』と切り出して呉れたので、答えるが、事実其の通りである」と、啄木も「その点は僕も疑わないよ」と言っていた。節子の弟堀合了輔は「不貞」の言葉は「プラトーニック」の線を越えた場合と指摘している。事件後、郁雨は演習を終わって函館に戻り、節子の実家も訪ねているがさして気にもしていなかったという。(堀合了輔著『啄木の妻 節子』洋々社刊)

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<出来事から思う>

啄木が言った「不愉快な事件」は、現在もそれぞれの見方がある。資料を読んでいて気になったのは、妹光子が内輪のもめ事をどうして公にしたのか理解しがたい。啄木は明治441016日、光子への手紙で「・・然しこの事についてはもう決して手紙などにかいてよこしてくれるな、・・」 明治45321日 もう書くことができなくなった啄木は、学生の代筆で光子に最後の手紙を送り「・・くれぐれも言いつけるが、俺への手紙をよこす時用のないベラ~した文句をかくな、お前の手紙を見るたびに俺は疳癪がおこる、」と書いている。三浦光子は著書で啄木が晩年に苦しんだ理由は「節子の晩節問題」と明かしたが、啄木も節子も亡くなってからである。啄木が向うの世界から、今さら身内の恥をさらすとは兄の自尊心を傷つけると思わなかったのか。光子を信頼して節子は啄木の最後を事細かに報告していたのに、それはないでしょうと、そんな声が聞こえてきそうである。当人たちが反論できない身内だからこそ余計に悲しい。
 啄木は約100人に書簡(手紙)500通以上送っているが、その中で郁雨宛てが70通余りで一番多い。啄木の借金メモから137250銭あると言われているが郁雨からのが多く、金銭以外の援助は計り知れないほどである。そんな中での不愉快な出来事は、郁雨に裏切られたと感じると同時に、啄木は自分自身に対する馬鹿さ加減、借金生活の歯がゆさ、屈辱感などでやりきれない思いがあったと思う。狭い正義感は表面的なことに終始し、人の想いが見えなくなることもある。

●啄木が亡くなる前にも、「・・函館に帰るな」「帰りません」と節子と約束している。このことは、郁雨と節子の妹、ふきとの結婚生活を壊してはならないという、共通認識があったのではないか。長女の節子は妹のことを常に心に掛けているし、郁雨は初恋の女性が結婚してもあきらめられず悩んでいた時に啄木は相談に乗り、郁雨の気質なども知っている。

●啄木の才能を信じている。忘れな草」の最後の章で、山下多恵子氏は仮想のインタビューで節子に語らせている。 「・・いつも弟や妹をかばう立場だった。啄木と一緒になってからは、ともに同じ夢を見たという実感はあるけど、保護され包まれたという記憶はないの。」 節子は一つ年上の宮崎郁雨を「お兄さん」と呼び、妹のふきと結婚し義弟になっても「お兄さん」と郁雨に信頼を寄せていた。函館で節子は啄木の母カツとの関係に悩み、独身時代の宮崎郁雨に不満を言えるほどの身近な存在になっていた。啄木の上京後に娘京子がジフテリアに罹り重篤だった時にも、郁雨が家族のように親身になって一緒に乗り越えている。宮崎郁雨の存在は保護されたという体験だったように思う。郁雨は人を助けたいという生き方が身についているので、節子が啄木に尽くすのを見て感動しているが、同情もしている。徐々に愛情に変わっていったのかもしれない。函館で節子の置かれた環境に同情し「あなたは啄木の犠牲になっているのではないか」との問いに、節子は「犠牲と言われて悲しくなる。犠牲ではない、啄木の才能を信じている」と、手紙で自分の気持ちを伝えている。

●啄木から郁雨への手紙 明治447月中旬頃から節子は体調を崩しており、啄木は88日、26日、31日と郁雨に手紙を送っている。その中に節子の(肺炎カタル)、母カツ、啄木の病気で、刻々と状態のようすを送ってくるので、函館から離れて美瑛に演習中だった郁雨は冷静さを欠いたのであろうか。一家の病気で節子は死ぬかもしれない。どんな具合なのか、その前に写真が欲しい、自分も一緒に死にたいなど、携帯電話もない時代なのだから動顚するのも分かるようで想像してしまう。

★西脇 巽著『石川啄木 不愉快な事件の真実』(2015830日発行)★澤地久枝著『石川節子-愛の永遠を信じたく候』(19911210日発行) 分かりやすく視点を変えて読むことができました。ご紹介します。

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★今回は長文になりました。次回は啄木の借金暮らしについて