思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・、⑬<4月13日、石川啄木の命日>


2016年、今年は石川啄木生誕130周年413日の命日には105の回啄木忌の法要が盛岡の「宝徳寺」で行われる。 啄木は明治45年(1912413日午前930分頃に亡くなった。

明治45年4月13の朝、啄木が呼んでいるからと、金田一京助は迎えの車で石川宅に向かった。上がって襖を開けると、此方を向いて寝ていた啄木は、大きな掠れた声で「たのむ!」と言い、それっきり目も口も瞑って、いつまでも昏々としていた。そこに、若山牧水も駆けつけてきた。節子は何度か大きな声で呼びかけ、啄木は気が付いて牧水を見て少しにっこりして、「こないだはありがとう」と言った。(若山牧水は、読売新聞記者の土岐善磨を通して歌集の出版を決めていた、その原稿料が届いた礼の言葉である)
若山牧水と嬉しそうに雑誌し次号計画の話をはじめたので、京助は安心して職場に向かった。その後急変し若山牧水、節子、北海道の室蘭から来ていた父に看取られて旅立った。(金田一京助著『石川啄木』より参考)

★啄木の日記、書簡、関係者の書籍から書き写していて、涙したところが2ヶ所ある。

その1ヶ所は、新聞社の前借だけでは生活費が足りない。啄木は知り合いの編集者に手紙で頼んでいる。「何でも書きます。名前を出さなくても済むような種類のものでも、よう御座います。」 しかし、原稿の依頼はなかった。啄木はクロトポキン英語版を活字のような丁寧な文字で1ヶ月かけて書き写していた。まるで、写経を行う修行のような感じもする。負けん気の啄木が、どんな想いで手紙を書き、現状を受け入れていたのか、気持ちを思うと切ない。


もう1ヶ所は、「啄木の死後、こわれかかった薄汚い柳行李を開くと、遂に売れなかった小説の原稿や、スクラップや、その他の雑多なものの中に、背綴じの破れかかった「平民主義」もあった・・。」 第二歌集「悲しき玩具」、薬を買うために原稿を持ち込んで、涙金のような、たった二十円しか得られなかったものであるが、灰色の表紙の寂しい製本が出来上がった時、彼は一週間前、既に最後の息をひきとっていた。」(土岐善磨著「明日の考察」より引用
未発表の小説は、書いても、書いても戻されてきたもの。節子は郵便受けから取り出して啄木に伝え、捨ててしまえと、放り出したのを保管していた。啄木と節子のつらさが込み上げてくる。


しかし、啄木は人との出会いに恵まれている。生きる節目節目に重要な人が、啄木に引き寄せられるように近づいてくる。最後に出会ったのが、読売新聞社会部の若手記者、土岐善磨である。(哀果と号し、歌集を出していた。啄木が朝日新聞に掲載した内容に共鳴し、明治441月に啄木に会いに来ている。)2人は雑誌の発行を計画して親しくなるが、啄木が亡くなるまでの1年と数ヶ月だった。啄木の葬儀を土岐の生家寺院(「等光寺」)で行い、母カツと同じ寺に遺骨を納める。金田一京助は父危篤の知らせで、啄木の葬儀後にすぐ帰郷している。


啄木死後、妊娠8ヶ月になっていた節子は、途方に暮れて土岐に相談している。未発表の小説から選んで啄木の遺稿小説「我等の一団と彼」を読売新聞に連載として掲載し、次女出産の入院費用に充てることになる。土岐善磨は啄木の文学と思想を最も深く理解した友人と言われており、その後も啄木の遺稿を発表して重要な役割を担っていく。啄木は26歳で命が終わるという予感で、どんなに悔しかったか。その分啄木に出会った人たちが意志を引き継いできた。真実の友情に恵まれてしあわせな人と思う。

イメージ 2



<次回、啄木日記は海を越えて函館に>