思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・、⑭<海を渡った「啄木日記」>


明治41425日 石川啄木は函館から海路を渡って上京した。風呂敷に包んだ日記と小樽日報に載せた記事を切り抜いて綴った「小樽のかたみ」を提げて、金田一京助を訪ねている。その後、東京で約4年間暮らし明治45413日に病死した。

<前回のブログ>


イメージ 1 啄木は日記の取り扱いを3人に遺言している。①東京で約1年間共同生活をした金田一京助には、『あなたに遺すから、あなたが見て、悪いと思ったら焚いて下さい。それまでもないと思ったら焚かなくてもいい』。
 ②函館出身の経済学者丸谷喜市には、『俺が死ぬと、俺の日記を出版したいなどと言ふ馬鹿な奴が出てくるかも知れない、それは断ってくれ、俺が死んだら日記を全部焼いてくれ』と話していた内容を、金田一京助読売新聞社記者の土岐善磨も聞いている。③妻の節子には、『啄木は焼けともうしたんですけれど、私の愛着が結局さうさせませんでした』
金田一京助は、父危篤の知らせで啄木の葬儀後に郷里の盛岡へ。丸谷喜市は、留学中。節子は、土岐善磨と相談しながら葬儀後に賃貸の住宅を出て、病院で次女を出産。その後、2週間ほど盛岡に滞在。親戚では養育を受ける余裕がなく、長女京子と次女房江を連れて94日「啄木日記」を携えて海を渡り、実家のある函館に戻ってきた。


<啄木日記の経過>

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啄木の日記が残ったこと、公開されたことは奇跡的といわれている。人の想いと手を通して公刊されたのが、戦後の昭和23年である。1周忌に函館中央図書館の中に「啄木文庫」を創設し、節子の依頼で「啄木日記」が保管された。結核で入院治療をしていた節子は「啄木文庫」に収めたと聞き、ほっとした様子で喜んでいたという。遺稿などと一緒に約30年間保管されていた。日記の存在は関係者しか分からなかったが、長女京子の夫、石川正雄によって昭和23年に啄木日記が筑摩書房から刊行。(『啄木全集第5巻』[解題]岩城之徳によって日記公開の経緯) 日記公開までは、ハラハラする奇跡のような経過である。当時の函館中央図書館長岡田健蔵の強い意志と宮崎郁雨や関係者の努力で、焼却、盗難、昭和9年の函館大火などに遭いながらも日記は無事に守られてきた。啄木の日記を誰でも読む機会が与えられたのは幸運なことと思う。(長浜功著<『啄木日記』公刊過程の真相―知られざる裏面の検証>2013.10.26発行 社会評論社

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先日、啄木生誕130年「函館に守り遣わされてきた啄木日記」特別企画展を観てきた。( ~平成28年10月4日迄)
休館日:7月8日(金)
    9月8日(木)・9日(金)

函館市文学館は、元旧第一銀行函館支店の建物で2階が啄木のコーナーになっている。奥に銀行の金庫室だった特別室に、函館中央図書館「啄木文庫」保管の日記が展示してあった。(明治41年の4冊は、現在一冊に統合されている)




<日記>
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丁未日誌(明治40年1月1日~12月31日)1月12日までのページ数が少なく、改めて明治41年日誌にまとめ直している。
「函館の生活」。5月5日は、函館に着いた日。11日に新しい仕事に出かけ、仕事の内容を書き留めている。素直な文字で読みやすい。
この後、札幌~小樽の日誌へと続く。





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明治42年当用日記
明治42年1月1日~4月6日・4月7日~6月16日)啄木は当時の日記帳やノートなどを使用し、横書きのもある。
ローマ字日記は字体がきれいで、一部に英語で書いている箇所もある。

左下段は、千九百十二年日記(明治45年1月1日~2月20日)最後の日付は啄木の誕生日に当たっている。
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 (日記と肖像画は、図録からアップ)

<感想>
図録の資料にある山下多恵子氏の、啄木の「声」を引用します。(平成28410日発行 22ページ)「・・私が啄木について書き続けているのは、結局そのことを言いたいのだろうと思います。啄木は実に真面目に生きた人だった、と。よく言われるように、嘘をついたり、借金をしても返さなかったり、自分の結婚をすっぽかしたり・・・と、欠陥の多い人間であったことも事実です。しかし彼は変わっていきます。何度もつまずき、絶望し、けれどもそのたびに立ちあがりました。・・啄木の本を開くと、書くこと・生きることにひたむきであった彼の「声」が聞こえてくる気がします・・」。
 私も啄木の日記や手紙を読んで同じような感想を持ちました。どのように生きてきたのか、当時の啄木の等身大に沿って足跡をたどってきました。この日記がなかったら・・、多分札幌で過ごした2週間の場所を写真で紹介し、ブログを終了したと思います。啄木の日記には人を動かす力があります。一途に、しかし現実を受け入れ、相手方と対峙する、そんな啄木に惹かれて貧弱なブログを続けてきました。今後はブログの訂正や追記も必要かと考えています。啄木を見つめる機会を得たことは何よりの収穫で、ありがたいことです。

★ 最後に展示室に掲げてあった啄木と節子の肖像画です。

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特別室入口内の右の壁に晩年の宮崎郁雨の穏やかな肖像画、中央奥の壁には啄木と節子の肖像画が並べて掲示してありました。啄木の肖像画は、大正2年石川啄木追悼会」時に斎藤咀華が描いたもの。その肖像画を病室の節子に見せると、じっと見ていて離さないので置いてきたという。節子の肖像画は、宮崎郁雨が晩年の入院中に依頼し、木村捷司が若い時の節子の写真を参考に描いています。郁雨は出来上がった肖像画を啄木の肖像画と並べて、これで良いと満足していたとのこと。肖像画を通して想いを巡らせ、心の深みに触れたように思います。



<次回は、函館の啄木、節子の足跡、現在の場所を写真でご紹介し、啄木についてのブログを終了します>