思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・最終、⑯「啄木は今も函館で永遠の眠りに」(2)

さて、前回のつづきです。(パソコンが不安定のため、啄木への道、最終ブログのアップがたいへん遅くなりました)


【5】函館公園の裏門からタクシーで→「石川啄木一族の墓」へ。

お墓は公園の裏門から出て、市電「谷地頭」駅に近い場所にあります。函館山の南端、立待岬に向かって坂道を行く途中に共同墓地がありました。徒歩では難儀でしょう。細い道の両側に沿ってお墓が建っていて、その最後の場所に「石川啄木一族の墓」が建っています。先の(1)ブログでは、「啄木小公園」から海の向こう側に函館山が見えていました。お墓のある場所からは、小公園がある町並みや啄木が散歩した大森浜が一望できます。お墓は立待岬にぽつんと建っているイメージとは違って、そこに住む人々と付き合ってきた旅人の啄木に相応しい環境だと思います。

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お墓の建立に、宮崎郁雨や節子の実家、堀合家が室蘭の娘宅に同居していた啄木の父一禎の意向を確認し、そちらで適当に処置して欲しい旨の返事を得ています。最初、関係者と当時の函館図書館長は現在より少し下方の場所に木標のお墓を建てました。現在のお墓は大正15年に建立しています。啄木、節子、母カツ、長男真一、その後、長女京子の夫・石川正雄によって、長女京子、次女房江、父一禎が入り、そして昭和43年に正雄が入って一族8人が永眠しています。

 さて、墓標横がある狭い階段を上がりました。石を重ねたような階段、雨も降っていたので滑りそう。そこからブロック塀をまわった左手にお墓が一つ。その奥に啄木一家のお墓があり、お花が供えてありました。正面と後ろに刻んだある文字は読めません。正面は啄木の歌「東海の小島の磯の白浜に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」(啄木がノートに書いていたのを拡大)、裏面には啄木が死ぬ時は函館に行って死ぬという、郁雨宛ての手紙の内容が彫ってあります。宮崎郁雨の発案で、ロシアに強い関心のあった啄木の想いを汲み、北方を正面に日露境界標石を模した将棋の駒のような形をしているお墓のようです。ひとつ置いたお墓の最後に、宮崎郁雨一族の墓」と郁雨の歌碑がありました。


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上の方で待っているタクシーの近くまで行き、バックがないのに気付き、また入口の階段を上がって探したら啄木のお墓の前にちょこんと置いてありました。そんなことで慌ただしいお墓参りになりました。車は一方通行なので、帰りは函館山の中、新緑のトンネルを通って市電「谷地頭」駅に着きました。




【6】市電「谷地頭」→「青柳町」→3つ目の「宝来町」で下車し、茶房「ひし伊」へ。
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「ひし伊」は市電駅から、徒歩で7分ほどにあります。


建物は質蔵でしたが、喫茶店に改造し現在は4代目が経営しています。啄木が3度目の上京後、函館で節子は義母と娘の京子とこの近くで暮らしていました。郁雨が節子に、啄木の犠牲になっていると言ったが、手紙で節子は啄木の才能を信じていると書き、最後に質に入れている利子だけでも貸して欲しいと無心しています。生計のために節子もこの質屋に出入りしていました。


店内の天井は高く、落ち着いた雰囲気で建物様式を残したままです。小さな旅の余韻に浸りながらケーキセットをいただきました。美味しかったです。
市電で函館駅に戻り、あたふたとスーパー北斗に乗り込んで、ふと考えました。啄木のお墓の前で、きちんと手を合わせていなかったように思うのです。次回に機会があったら、「いい旅をさせていただき、ありがとうございました」と手を合わせて、語ることができればと思っています。

★著書の紹介:阿部たつを著・桜井健治編「啄木と函館」(定価:1,240)。当時の写真が豊富で、啄木の足跡を訪ねる函館市内案内地図の差し込みもあり、読みやすい本です。


最後に、資料を読んでいて面白いことに気が付きました。作品や業績を継承することで、東京で啄木と同居暮らしをした金田一京助が関与して「啄木会」を作り、啄木の作品を世に広める働きをしています。ところが、京助の長男、金田一晴彦は野口雨情の「雨情会」の顧問を引き受けているのです。

親子を通して啄木と雨情はつながっているようですね。啄木と雨情は札幌で出会い、小樽で本を出版しようと理想に燃え「いや~、あの時は良かったね」と、あちらの世界で酒を酌み交わしているかも知れませんね。北海道で結んだ縁は今も続いていると想像します。 啄木への足跡を読んで頂きありがとうございました。


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