★ 松浦武四郎が歩いたであろう、道南日本海側 の沿岸地域を旅して ②
28歳の時、青森から江差の船に乗せてもらい初上陸します(1845年)。しかし、瀬棚まで行くが松前藩の取締りが厳しく江差に戻り、知り合いを通して江差商人の手代として太平洋海岸の知床まで歩いています。翌年の2回目渡航では、江差から日本海側の海岸線を北上して宗谷に着き、そこから船で樺太に渡っています。
4回目39歳の時、今回から幕府の役人として函館から日本海側を北上して調査に加わっています。その中で沿岸地域の人々と交流して食し、宿泊しながら主に徒歩での長距離の調査は大変厳しい状況であったと想像します。
今年の6月、札幌から函館へ帰る友と札幌から2人の3人で小旅行をしました(車で札幌から江差まで4時間30分)。 24日の早朝に札幌を出発し日本海沿岸の町々へ、幕末の武四郎さんと逆ルートです。八雲から熊石に入り、乙部→ 厚沢部→ 江差(厚沢部町で宿泊)。 25日朝、厚沢部町(レクの森)→ 上ノ国→ 松前→ 「函館山」で夜景→(湯の川温泉で宿泊)。26日に函館の五稜郭周辺を散策して札幌に戻ってきました。
<江差>
江差に和人が住みはじめたのは、1190年前後のようです。道内で最も早く開港した港町で、1790年頃から北前船(きたまえぶね)」が日本海路を運行していました。大阪を起点に、江差を終点とする商品を運ぶ買積船です。
「今は2つのお祭り(■かもめ島祭り ■江差・姥神大神宮渡御祭)に若者が帰ってきて町中が大勢の人で賑わいますが、普段は人通りが少なく淋しいですよ」と、会館前の花壇整備をしておられたボランティアさんのお話です。
伝統文化の一つ「江差追分」は、信州の馬子唄が船歌として船頭たちに唄われ、その後江差でも唄われるようになりました。現在は毎年全国から歌を競う人々が江差に集まり、今年の9月には56回「江差追分全国大会」を開催しているようです。
次回は、幕末にオランダで建造し江差の海岸で沈没した軍艦「開陽丸」と、
「かもめ島」について書きたいと思います。 つづく。