思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

★幕末、江差を舞台に幕府軍艦「開陽丸」の運命(旧幕府とともに) ③

江差の海岸近くにある町役場前の国道228号に沿って、山側に一本入った通りが「いにしえ街道」で、江戸末期の歴史的な建造物やお寺などが建っています。
ニシン漁の廻船問屋「旧中村家住宅」、漁業、商業などの問屋「横山家」、また北海道最古の神社「姥神大神宮」(うばがみ だいじんぐう)では、ニシン豊漁で栄えた記念を毎年8月に祝い、町を練り歩く渡御祭が盛大に行われています。



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<開陽丸>
「いにしえ街道」から海に向かい、海岸には、えさし海の駅 開陽丸「開陽丸青少年センター」の建物と、その後ろの海辺に幕府軍艦「開陽丸」があります。平成2年にオランダで製造した設計図をもとに原寸大に復元したものです。
幕末に江差海の沖に止まっていた「開陽丸」が暴風雨で沈没しました。平成2年に調査し、復元した木造艦内には、海底から回収された遺品が3万点以上展示してあり、砲弾の音と勇ましい蠟人形の声にびっくり。解説の文章や、当時船員が寝ていたハンモックなどがわかりやすく展示してあり、体験もできます。

旧幕府と新政府の戦い「北辰戦争」末期、明治元年に旧幕府の軍艦「開陽丸」は函館から江差港に入り、戦わずして江差を占拠し、その夜に暴風雨で「開陽丸]座礁します。
陸から攻めていた旧幕府の土方歳三と、海上から軍艦を率いていた榎本武明が江差の宿屋で休んでいる時、「開陽丸、沈む」との知らせで、2人は沈没する軍艦を見ていました。松の幹を何度も拳で叩き、涙をこぼしたと語り伝えられています。最新技術で製造し賞賛された軍艦、日本湾に入港して2年ほどしかたっていない。悔しさと自分たちの運命を見たのでしょうか。
(土方は、函館戦争中に35歳で討死。 榎本は、函館戦争で降伏し数年牢獄に入りますが、明治政府の黒田清隆に才能を認められて、その後北海道開拓使の任に就いています。)

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船内の甲板から「かもめ島」が見えます。













<かもめ島>

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陸続きの「かもめ島」は江差のシンボルといわれる、檜山道立自然公園の特別地域に指定された美しい小島です(江戸時代は弁天島と呼ばれていました。海抜20m 周囲2.6km)

海面に浮かぶ、「瓶子岩(へいしいわ)」は漁民の守り神として崇拝され、江差にニシンの群来が押し寄せて町が繁栄したことを記念し、毎年7月の「かもめ島祭り」には町内の若者がしめ縄をかけかえます。全長30mに重さ500キロ)


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さて、かもめ島を歩きましょう。
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敵を見つけるのに、今はスマートフォンで情報を収集できますが、昔はどうだったのでしょう。


江戸時代の後期に、侵入する諸外国船を迎え撃つ場所が設けられました。「かもめ島(鴎島)の大砲を備える場所は、南にキネツカ台場、北にテカエシ台場が設けてあったそうです。





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厳島神社(いつくしまじんじゃ)」は、  1615年に創建されたと伝えられています。
境内には船頭たちが寄進した石鳥居や方向の刻された手洗石が残されています。 
                                    



次回は、厚沢部町の「蛾虫温泉旅館」と、レクの森「ヒバ爺さん」(北海道新聞函館支社の記事から)④