思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

札幌芸術の森美術館(その人を突き動かすもの)

数日後に、また芸術の森美術館に行きました。
北海道の美術に影響をもたらした、「なかがわ・つかさ」という人を
もっと知りたい。そんな思いからです、
 
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以下、「さっぽろ・昭和30年代図録」を、参考にして思ったことを書きたいと思います
 
なかがわ・つかさ(本名:中川 良)は、茨城県桜村栗原に生まれています
早稲田大学でフランス文学を学び、昭和27年に北海道にきました。
そして、木田金次郎という、画家に出会ってしまったのです。画家が描く風土に魅せられてしまいました。
 
木田金次郎は、北海道岩内町に生まれて、漁の仕事をしながら岩内の自然を
描き、生涯を岩内で暮らした孤高の画家と言われています。 
(昭和29年、61歳の時に台風による岩内の大火で、油彩とデッサンを合わせて
1500点以上の作品を焼失していますが、その後も描いています。昭和37年12月
15日に脳出血で死亡)
 
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なかがわ・つかさは、翌年から札幌に定住します。北海タイムス、読売新聞(北海道版)などに、展覧会評の短文記事を連載。ついに、初めての批評グループの美術誌「美術北海道」第7号まで発行し、第8号の編集中、昭和37年8月11日に、脳溢血で亡くなりました。  
わずか、10年間です。
 
忘れられた名作(北海道の物故画家たちの絵)に寄せる思い、新人画家を育てたい、画家が描く質を高めたいなど、その仕組み作りのために奔走していた様子が、絵の論評や資料から溢れてきます。
幅広い北海道美術協議会の基礎づくり、誰でも行きやすい都市中央に美術館建設への展望。そんな夢が熱く流れているのを感じました。
 
その人を突き動かすものは何かしら?
なかがわ・つかさは、木田金次郎に出会った。木田金次郎は、有島武郎に出会った。もし、有島に出会わなかったら、あの画風を観ることができたか。
 
有島は現在の北海道大学の英語教師として、当時は札幌に住んでいました。
明治41年に絵が好きな学生が集まり、「黒百合会」を発足。会の顧問になった
有島は展覧会に出品していましたが、それを観た木田金次郎は影響を受けています。
その後、小説家との出会いを通して北海道の風景を描くようになったのです。
 
人や場所との出会いは大小にかかわらず、突然起こるもので、その人の人生で予期しない出来事と言われています。出会いは夢をかき立てる詩ごころのようなもの。
だれでも詩心と私心の両面をもっていると思いますが、その詩ごころを揺り動かし、
何かを感じて「ひたむきになる」、それがエネルギーになって、心を、動かしていく。
 
その連鎖みたいなもの、「なかがわ・つかさが見た熱き時代」を観ての感想です。
 
それにしても、年齢を45歳と公言していたとは。亡くなった時に、34歳とわかったそうです。 個性豊かな画家やえらい関係者との交渉には必要かも知れませんね。
確かに、どの写真にも45歳の風貌が見られます。
 
自分で年齢をつくるのも、時にはいいですね。