思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

戦争責任をテーマとした旅、絵画。―画家 富山妙子氏の著書から ③

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★8月19日 ツイッターのタイムラインに富山妙子さんが亡くなったとの情報があり驚いています。今年の3月には韓国で共催展を開催していました。誕生月は11月ですから100歳にあと少しで残念です。ツイッターのおかげで本を通して画家の生きた証を知ることができ、感謝しつつ魂を解放して新たな一歩へと念じ、お悔やみを申し上げます。

 

幾何学的な形態のボタ山が絵のモチーフになり、ボタ山の下からは坑夫のうめき声も。

 筑紫の山々を越えた眼下に筑豊の平野には大小のボタ山が点在していた。Fさんは「ここは炭鉱が八百八丁あるといわれ、食いぱぐれた者はこの峠で思案し、煙の出るところをたずねてゆけば、なんとかなるといわれとったんです。・・」(93頁) 「・・くる日もくる日も、私は閉山のヤマをたずねてまわった。夜逃げ、坑内災害、一家離散、栄養失調—私の毎日は半飢餓地帯でみる救いようもなく暗い生活である」(99頁)

「戦後、労働運動の高揚とともに文化もまた新しい担い手としての労働者・・・人間解放と人間変革をめざし、社会環境を根底から問い直そうとする熱気がこもっていた―私もそのエネルギーに自己変革をとげたいと思う。・・私の炭鉱遍歴がはじまった。」(104~105頁)

 

<★本の紹介>

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<『筑豊炭田に生きた人々—望郷の想い【近代編】』 著者:工藤瀞也 (2008年発行/海鳥社)>

 石炭産業は地域を形成し発展した全盛時代と、エネルギー政策の転換で閉山に追い込まれていく1885年~2004までを前編として「産炭地筑豊」をまとめたのが本書です。「・・石炭産業の壊滅に伴う諸課題が集中したのが「筑豊」地域であった・・」歴史博物館 館長安蘇龍生氏の刊行文            (表紙、右の絵は千田梅二画)

 

 著者(富山氏)が「筑豊炭鉱」に行き来する頃には配炭公団が廃止され自売が始まっていました。各地で炭鉱ストが続発。(著者が北海道に渡った時に三井鉱山ストライキ「英雄なき113日のたたかい」があり、2701名への解雇に反対した労働組合側が勝利)。しかし石炭鉱業合理化の措置法で、大手14社はロックアウトを宣言して閉鎖が続き、零細企業を残す状況でした。

「・・約十年間、暗い地底や、黒ずんだボタ山の絵ばかり描き続けてきて、私のパレットには明るい歓びの色はない。・・私は自分が見えない。私は自分の個性とはあまりにもちがう暗い地底にしがみつき、何も出ない鉱脈を掘っていたのかもしれない。・・十年の炭鉱遍歴がどっと一度に疲労となってのしかかり、自分のしたことがひどく空しく思われた・・」(118頁)

 

⓶『戦争責任を訴えるひとり旅—ロンドン・ベルリン・ニューヨーク—』 富山妙子著/岩波ブックレットNO.137

(冒頭の写真)

著者は 1950年代:炭鉱をテーマに制作。 60年代:ひとり旅から第三世界をテーマに。 70年代:韓国をテーマに制作。 80年代:戦争責任をテーマに。 77年より、絵の映像化をはじめています。(本書の著者紹介より)

 炭鉱離職者の一部が南米へ移民。あるきっかけで1961年10月に「沖縄移民」で日本がチャーターした船で日本を出発し、ひとり旅がはじまりました。 第4章:南半球(苦い大地) 第5章:ソビエト・ヨーロッパ・中近東(自由とは) 第6章:インド(命の極限) 第7章:重いきずな(わが日本、わが朝鮮) 第8章:前夜(語れ夜は夜だと)と続きます。絵の色彩も鮮やかなものになっています。 少女時代にハルピンで過ごした著者は日本の中国侵略を思うと暗い戦争と、敗戦の中で日本が責任を負う意味、日本に踏みにじられた隣国の人々に思いを馳せて旅をし、「・・日本政府が欠落させている戦争責任の追求を、小さな弱者である私たちの手で行おう・・」(あとがきにかえて 373頁)と結んでいます。 旅をしながら、問いかけながら多くの作品描き、20冊ほどの代表的な出版物もあります。 (おわり)

 

★最後にひとこと。

『わたしの解放』を読んで、大正、昭和、平成の時代に押し寄せる社会の歪に、著者が果敢に挑んでいく行動力や世界の大きさに圧倒されました。その中で炭鉱産業に生きた人々の暮らしから夕張の話を思いだしました。南夕張出身の友達がいて、お兄さんは外科医でした。大きな声で「雨露しのぐ屋根があるだけでも有難いと思わなきゃ」と話すので、なんか可笑しみがあって妹さんと顔を見合わせて頷くこともしばしば。お父さんは三菱南大夕張の社員とのことですが、小さい時から炭鉱労働者の過酷な環境を見ていたのでしよう。

床に入って天井を眺めながら、この言葉を思い出します。今も新型コロナウイルス感染拡大の影響で仕事や住まいもなく、十分な補償も得られない人もいます。著者は日本主義からの「棄民」がいると、移民の問題を取り上げていますが、この令和でも社会底辺にいる人は、ある意味では「棄民」としての姿ではないでしょうか、と思うのです。

 

★私事です。ブログをあまり投稿していませんが、ホームページの方はソフトが壊れてしまい、そのままになっています。ブログと一つにしたいのですが簡単にはいかないようで思案中です。

 

長文になりました。読んでいただきましてありがとうございます。

 

戦後-炭鉱に絵画のリアリティを求めて―画家 富山妙子氏の著書から ⓶

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<著書の内容より>

①東京の美術専門学校に入学。1941年 真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入し4年後に敗戦

1932年 日本が強行に「満州国」を建立。その年に女学校へ入学する。 

1938年 ハルピン女学校を卒業後、単身で日本に帰国。女子美術専門学校に入学するが中退し、「美術工芸学院」で学ぶ。戦時下で東京も物質の窮乏と自由が失われていた。

A君と知り合い、平等であることをタテマエとし、姓名も変えずに友情によって結ばれる結婚生活。子どもは著者の戸籍に入れる。その関係も徐々に変わり通じ合えぬ深い溝ができた。その頃友人のB君との関係が深まり冷却期間を考え、A君の知り合いを通して寒村に疎開した。村では麦が盗まれたと噂が広がり、疑われるのは底辺にいるヨソ者、疎開者、序列の一番下に朝鮮人がいた。東京の友人たちと別れて孤独であったがB君が追いかけてきて一緒に住むようになり、A君は別れることをやっと納得した。寒村で生きるのに暮らし方も変えざるを得ない状況だった。1945年8月15日に終戦となる。敗戦の翌年、わずかの持ち物を現金に換えて子供と3人で東京にもどる。

 

敗戦後に生活の糧として売る絵を描いていたが、一人で生きる画家への道を選ぶ

間借りした部屋の縁側に七輪と流しをすえ、井戸から水を汲んできて炊事。隣室の柱時計の打つ音を数えて時間を知り、空箱を部屋の隅に並べて家具とし、一組のフトンに親子がくるまって寝るという貧乏などん底のなかに、B君との子供が生れた。5年が経ち絵のアルバイトで生活ができはじめた時、B君が親戚の後援でフランスに絵の勉強にゆくという。戦後生活の重圧で2人は別々の道を進むようになる、毎日話し合ってもズレが次第に大きくなる。意見の食い違いで悩み苦闘する。B君が求めるのは男たちが愛と献身をささげる「永遠の女性」と呼ぶ姿である。著者が求めた男性とは一つ一つの課題を共に考え、同じ価値を見出そうとする平等な同志であった。 「ひとりで生きる決意をしたとき、大きな手術が済んだあとのような満足感があった。しかしそれと同時に、二人まで父親を失くした子供の人生を考え、孤独という後遺症の傷がいた。心のどこかにぽっかりと大きな空洞ができたようだ。」(81頁)

 

炭鉱に絵画のリアリティを求めて、鉱山を描く決意

3度の食事にありつくため、馬車馬のように絵描きができる仕事をしてきた。5年経ったある夏、宮城県で数日間過ごした。創造の根を観念的なものに求めていたが、敗戦後の飢餓的な暮らしから人々の生き抜く姿に共感し、「鉱山を描こう」と決意する、日立鉱山の見学や写生に出かけていた。炭鉱記者が北海道の炭鉱を描くようにとの好意から、各地の炭鉱を回れる便宜が得られ、初めて冬の北海道に渡る。列車の中で昨夜、落盤死した赤平の若い炭鉱労働者の話を聞く。 「炭鉱が夕暮れの中に現れ、雪の中に立つ三角形のズリ山には飾りのように点々と電灯がともり、小さなトロッコが山頂に登ってゆく。山の斜面いっぱいに並んだ坑夫住宅のまばゆい灯の列—・・炭鉱風景であった。」(90頁)

1953年 北海道の炭鉱をテーマとしてはじめて個展を開いている。そのあと「炭鉱新聞」から特派員として不況のヤマをまわってはとの話になる。北海道の炭鉱は会社側から見たもの。今度は労働者の側に立ってヤマを見るため、福岡の「筑豊炭田」に行くことになる。   (つづく)

 

<備考>

冒頭の写真:夕張市水沢地区当時の状況。写真の掲示から。

2枚目の写真:三笠炭鉱 当時の夜景。写真の掲示から。

3枚目の写真:工夫住宅(6棟割長屋) 制作の写真掲示から。

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アートを通して、夕張、三笠の閉鎖した炭鉱町を観て歩き、当時の炭鉱労働者の悲惨な暮らしを、特に住宅から想像でき心に残っています。(社員住宅は安定した場所に建っており、風呂や居間など生活の環境が整っていますが、炭鉱工夫の住宅はズリ山の斜面に沿って6棟長屋が建ち並び、風呂もなく隣の音が筒抜けの住宅環境です)

 

戦争に巻き込まれた民衆の痛みを通して。画家 富山妙子氏の著書から。①

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戦後76年、なぜ、あの戦争が起きたのか。この夏になって特に思いめぐらしています。

世界で初めての原子爆弾が広島と長崎に投下された。あの悲惨な戦争は急に起きたのではない、なるべくして起きたと言われています。政府の思惑に巻き込まれて第二次世界大戦へと突き進み、戦争を止められなかった日本。

7月27日、ツイッターのタイムラインから流れてきた紹介の本を偶然目にし、日本が「満州国」を建立した頃に暮らしていた当時を語る良書を読むことができました。ツイッターは情報の宝庫ですね。著書からの引用で当時の状況を想像したいと思います。   (長文になります。)

 

★『わたしの解放』-辺境と底辺の旅- 著者:富山妙子(1972年初版 筑摩書房

★著者の紹介(「富山妙子画家 ホームページ」から)

1921年 神戸市に生まれる。ハルピン女学校卒業後、単身帰国し女子美術学校(現女子美術大学)に入学。その後中退し、「美術工芸学院」で学ぶ。自由美術家協会会員(1950~) 児童画、鉱山や炭鉱をテーマとする油彩画、版画、インスターレーションなど多くを制作し、各地域で個展を開催。

2021年ソウル延世大学博物館にて「記憶の海へ―富山妙子の世界」展を開催。6月に韓国政府より「大韓民国国民褒賞」受賞される。絵画とは、生きるとはを問いつづけながら戦争責任を訴えて各国を巡り、現在100歳を迎える。

 

★(本の引用から)著者が見た、戦争へと突き進む日本政府。

*少女時代は家族と旧満州、大連とハルピンで過ごす。

<「満州」とは、日本が中国領土を侵略して植民地とした国であり、人口三千万の大部分は漢民族であった。満州民族はそのうちの約八十万だが、中国東北に住む中国人全体を「満人」と呼んでいた。・・中国東北より南を「志那」と呼んでいた(当時の呼び方)> (3頁)

 

<大連の良い場所はすべて日本人が占め、中国人ははずれの、きたない志那町に追いやられていた。大連の港町には船に豆粕を積み込む中国人労働者が一万人余り働いていた。一日働いてもやっと飢えをしのぐ程度の低賃金のため、たいていの人はひどい栄養不足と、激しい労働のため平均寿命は三十代といわれていた。>(10~11頁)

 

<あるとき、近所で日本人の奥さんが満人のボーイに殺された事件があった。「あの奥さん、いつもボーイをひっぱたいたり、ずいぶんひどい扱いをしたんですって、カーっとなるわよね」・・子供の眼はありのまま素直に現実を見ようとしているのに、つねにそれを狂信的にゆがめてしまうのは、体制的な教育や教師たちであった。・・新聞には火事のとき「御真影」を守って焼け死んだ校長の美談がのっていた。生徒たちはひそひそとささやく。「写真なら焼き回しができるじゃないの」「ちがうわよ。あれは普通の写真とちがうのよ。文部省からタマワッたのだって」・・いつしか私たちの心にタブーが育った。> (13~14頁)

 

<かつて父は画家志望だったが、家庭の事情で目的が果たせなかったため、私が本気で絵の勉強をするつもりなら、場合によってはパリへ留学させてもよいという。女子美術卒業、パリ留学、文部省主催の官展特選という画家にとっての出世コースが、父の頭のなかに作られていた。・・「女学校の身で基礎もできていないのに、マチスピカソだとわけのわからぬ新しい絵の真似をしたがる」・・わたしはだまって聞き流した。・・東京さえゆけばあとはこっちらのものだ。‥パリ―・・・ハルピン駅を出発した満洲里行きの列車が・・シベリア鉄道に接続し、やがてヨーロッパに入るのだろう。私は自分の未来を追うように北満鉄鉄道の列車を見送った。>(22頁)

 

                                                                                                   ⓶へ、つづく

 

<東日本大震災が発生して10年、「山のもの、海のものが豊かに生きる」 折り鶴の世界>

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2011年3月11日14 時46分 東日本大震災が発生して10年を迎えましたが、今年の2月13日に震度6強の余震が続くとは、日常の暮らしに潜む自然災害の厳しさを感じます。

宮城県福島県震度6強という強い揺れは、どんなに怖かったかを想像します。幸いに津波は来ませんでしたが福島県には原発があります。地震の影響で福島第1原発1号機と3号機で格納容器内の水位が数十センチ低下し、1日数センチ程度のペースで続いていて、原子炉への注水などをしているなどのニュースを聞き、人間が造った災害の怖さも感じます。

10年が経ち、3県で仮設・復興住宅での「孤独死」が614人。現在、東日本大震災で行方不明者は6県で2525人(3月1日現在、警察庁の発表) 、心が痛みます。宮城県警では今年の2月に遺体の身元が分かり、約9年9ヶ月ぶりに遺族のもとに帰ることができたとのことです。遺族の思いとしては帰ってこないうちは、死を受け止めることはできないでしょう。

原発発電所がある福島県では、196人の方が未だに行方不明になっています。また、36,000人余りが県外で生活をしています。3月9日の「毎日新聞オンライントークLIVE!『東日本大震災から10年 私たちは何を伝えてきたか』」の取材から、福島ではいろいろな分断が寝深く残っているという話もあり、賠償金なども分断につながる悲しい事情です。

 

東日本大震災後から1日も早く元の暮らしに戻ってほしい願いで、一日一羽、一万鶴を折っています。2021年 3月11日までの「折り鶴」をアップしました。(冒頭の画像)

 【 今回のテーマは、 「山のもの、海のものが豊かに生きる」 折り鶴の世界 】

 ★60cm×70cmの舞台に並べました。★1日も早く普通の暮らしができるように、周囲にある身近な素材を利用しています。

(素材)背面、下面は布、観葉植物(2)、筒(4)、ガラス食器(3)★その他は色彩の折り鶴(3~4cm四方の、小さな和紙)

地域に森が茂り、山々に小動物が育み、清涼な海の藻に魚たちが群がる、生き物が住む豊かな自然環境で住民が安心して暮らすことができるよう心から願いたいと思います。

 

<最近読んだ本から>

烏賀陽 弘道著「ヒロシマからフクシマへ ―原発をめぐる不思議な旅―

写真、図や年表を入れ、文字も大きくとても読みやすい本です。著者は元朝日新聞記者。03年にフリーランスになり書籍を中心に執筆活動。福島第一原子力発電所の事故後をきっかけに、10年間、福島に通い記事を書き続けています。

(・・福島第一原発は1971年に営業運転を開始。・・その当時を知る東京電力の副社長であった豊田正敏氏は、「当時の社長から原子力は安全最優先でやってくれよ」と何回も言われたんですがね」 「最初からやっている人は『安全性神話』なんか信用していなかった。顕在化させない努力を十分やらなきゃいけないんだと、そんな感じでやっていた・・安全にはカネがかかると言うと嫌な顔をするようになった。・・安全にカネがかかる。なのに、・・安全にカネをけちるようになった」)(205頁~207頁)

★政府のエネルギー政策は民間に任せ、エネルギーの転換期には後処理も民間に担わせて撤退。そのため地域が衰退し、住民が暮らしの基盤を失う。経済優先で地域に住む人の命、生活まではで保証しない。政府は今後福島を重点に5年間で復興事業を完了との方針です。

⓶木村英昭著「―検証 福島原発事故―官邸の100時間」

福島原子力発電所事故時系列表(2011年3月11日~15日) 1頁から30頁にわたって、数分刻みで刻々と原発事故に翻弄されていく様子が表だけでも分かり、その事態の大きさに身震いします。その表に沿って、第1章~第5章に詳しく書かれています。(著者は朝日新聞社の記者)

★当時を振り返って、元菅(かん)総理に言わせたこと。

「人知、人力の及ばない不可知なところの働きが幸運な方に振れ、・・神のご加護だと言うしかない・・」この言葉が今も印象強く残っています。

 ★最後に、報道写真家 大石芳野さんの言葉を載せたいと思います(北海道新聞3月7日のインタビュー記事から)

「・・原発事故のあった福島に足が向きました。放射能は目に見えない。だからこそ撮ろうと思ったのです」 「人間を撮るんです。困っている人、悲しんでいる人、それでもたくましく生きる人・・。人ごとではない。そう思って撮ります。・・」 「見えないものを何とか伝えられないかというのが、福島に限らず私がずっと追いかけているテーマです」     (長文を読んでいただき、ありがとうございました)

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新春のごあいさつ

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三角公園を思い、年賀状を作りました。(和紙を素材に、約13cm四方の色紙)

 

明けましておめでとうございます。

 ヤフーブログから、はてなブログに移行して1年半経ち、新たなご縁に感謝しております。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

年末年始のコロナ禍緊急相談会と年越し大人食堂などの支援内容がツイッターに流れています。この1年、特に冬季の新型コロナ感染拡大はつらいもの。どうか、早くコロナが収束し安心した暮らしにと願うばかりです。

 

昔の話ですが、大阪・西成区にある「あいりん地区」(通称、釜ヶ崎)へ、ボランティア活動で休んだこともありましたが月2回通っていました。

日雇い労働者の街とも言われていましたが、この地区にはホームレスとなる方々の中に高齢者も多く暮らしています。地図にない街「あいりん地区」は、行政がつけた呼称とのことです。

ホームレスの方々は街の清掃や軽作業を行う、そんな仕事もしていたようです。

「あいりん労働福祉センター」に4年間通いました。(現在は閉鎖。建て替えなどで町が新しく整理される、再開発の方向でホームレスも減少しているとのことです)。

そのセンター前に三角公園(通称)がありました。その公園で野宿をするのですが、やはり冬期は大変つらいものでしょう。

 ボランティアは男女2班に分かれて手伝っていました。男性ボランティアは、おにぎりと毛布をもって外回り。女性ボランティアは食事つくりです。私は料理の下拵えや後始末の作業を手伝っていましたが、この食堂は定期的に店を開けており、主に高齢者を対象にし、50円、100円と代金をいただくお客様です。

駅までの帰りは車道を歩き、車が歩く人を避けるように上手に通り抜けていきます。道路の両端には酔って寝ている方々、臨時の労働作業で、その日暮らしです。また上着やズボン、下着などが歩道に広げてあり、100円・・値札が付いています(よく古着の寄付を募っていますが男性物ばかりです)

少額でもお金をいただくことで、自尊心を大切にして人間関係を築いているのです。

ある30代の男性ボランティアは「長靴が脱げなくなって・・」あいりん労働福祉センターの「相談室」に入職し、住民となって暮らすようになりました。人情味のある暮らし、誰でも受け入れる包容力、厳しさの中にも弱者に対する優しい温もりのある街として、思い出に残っています。

 

冬の到来・JR滝川駅

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11月4日、紅葉の終盤に雪が降りました。札幌では昨年より4日早い初雪です。市内でも南区の定山渓方面では、積雪のある雪景色がツイッターに流れていました。私が住んでいる地域では一時的に降ったり、晴れたりで、積雪はありません。

北国から冬の到来ですね。  (冒頭の画像は6時半過ぎ)

 

さて、私ごとですみません。背・腰部骨折の後遺症で痛みは持続していますが、行動範囲を広げて動いています。10月初めに滝川市に行ってきました。

滝川駅構内にある休憩室に展示してあった、滝川の歴史について少しご紹介したいと思います。

滝川市は北海道中央部に位置し、夏は30度とも暑く、冬は豪雪地帯と言われる内陸性気候です。JR札幌駅から特急50分程で滝川駅に到着します。(旭川までの中間にあり、この間に砂川、深川と石狩川水系に沿っている街。)

滝川は明治23年に開拓者の移住から明治31年に鉄道が開通しています。昭和になり石炭産業で人口も多く街が賑わう時期もありました。現在は農畜産物が主で特産物に全国的に知名度が高い、松尾ジンギスカンの発祥地と言われています。また広大な菜の花畑から採集した天然の、なたね油も有名です。 

★最後に画像で紹介します。

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上は現在のJR滝川駅   下は展示から当時の駅、歴史

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数年前の駅ホーム

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帰りに車窓から

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★ブログは状況を見ながらアップしていきたいと思います。ご来訪をありがとうございました。

九州の豪雨の被害

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豪雨から九州全体で亡くなった方が60人、行方不明の方が17人という(9日の午前)、大きな被害に心からご冥福とお見舞いを申し上げております。

熊本県の南部にある人吉市では18人が亡くなっています。私は30歳ごろに3年間人吉で過ごし情報を見ていて心が痛みます。人吉では熊本弁とも違い公家ことばのようで、三日月城ともいわれている人吉城跡を「青井さん」、また上下にも「上さん、下さん」と話し、穏やかで親しみ感じます。

 

人吉在住時で、特に2つのことが思い出されます。

山に囲まれた五木村。バス1台がやっと通れるような道を降って行きます。五木村の歴史から熊本県の民謡「五木の子守唄」の歌詞が実感としてわかり、この曲のイメージが変わりました。子守をする少女たちは「口減らし」で奉公し、赤ちゃんを背負って聞かせていた子守唄です。貧しい境遇にある少女、悲しい唄ですね。人吉を離れてからですが、ダムを造設するため村全体が川に沈んでしまう情報で心配していました。10年前に計画が中止になり、人口減少や高齢化の中でも産業を立て直し村が存続しています。本当に良かったと思います。

 

もう一つは熊本県球磨郡にある中等少年院です。謄写版で歌詞本を作り、生徒さんと歌うために音楽の先生とボランティアとして週に1回通いました。1952年にヒットした「雪の降る街を」は人気があり定番曲となりました。また球磨川沿いの河川敷で少年たちと鍋を囲んだひと時は宝物になっています。

 

最後に、皆さまは新型コロナウイルス感染拡大の予防で不安な日々を今も過ごしておられると思います。私事ですが、巣ごもりも終わり、これからという矢先に転倒して骨折。5月31日の道内十勝沖の地震を知らせるアラーム音でびっくり。起きる時、布団に足を絡めて仰向けに転び翌日受診して腰部、背部の骨折。この暑いのに、コルセット装着です。お蔭さまで自宅療養が可能から簡単な食事つくりや片付けをしています。椅子に座ると大腿部にコルセットが突き刺さり、上にあげると胸に突き刺さる。削りましょうとのことで受診したら、上下反対に装着していました。

今は生活リハビリを進めています。周囲にはコンビニやスーパーがあるので、そろりそろり動いています。7月末にはコルセットを外し、腰椎バンドであれば行動範囲が広がると頑張っています。

久しぶりのブログでした。

<東日本大震災から9年経ち>


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2011年3月11日14時46分頃、広い範囲で最大震度7という東日本大震災。遠い札幌でも震度3と揺れました。テレビの映像で地震から押し寄せる津波の恐ろしい勢いを、ただ呆然と観ていました。そのうちに、福島第一原子力発電所の事故です。

いたたまれなく次の朝に出かけた場所が、冒頭の画像です。静かなギターの音色を不安で傷ついた心に届けたい、大ごとにならないようにと、浮かんだ場所でした。(彫刻家、本郷新作品の「奏でる乙女」ブロンズ像。本郷新記念札幌彫刻美術館に向かう道の交差点の部分に設置してあります)

警察庁の発表によると、2020年3月1日現在も不明の方が6県で2529人とのことです。
今も暗い海に向かって、乙女像が静かに奏でながら悲しい記憶、傷をやさしく包んでいるようです。そして今も終わりのない原発事故の不安で故郷に住めない、場所も奪う人的、自然災害の厳しさを思います。

 

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北海道胆振東部地震 6ヶ月後に行った時の写真です。

 2018年9月6日03時08分ごろ、北海道胆振東部地震は最大7の震度が発生し(厚真町鹿沼震度7を観測)、震源に近い厚真町では土砂崩れに巻き込まれ36人が亡くなっています。札幌でも最大6弱の揺れで、その後に北海道全域が停電で「ブラックアウト」が起きました。

 1年6ヶ月が経ち、所用で厚真町に行きました。3月4日の北海道新聞 どうしん電子版の内容です。「北部4地区には地震前、計約90世帯がいたが、今は約3分の1の30世帯余。多くが地区外の仮設住宅などに出たままで、戻らないと決めた人も少なくない。・・懇親会、パークゴルフ大会、新年会―。コメ農家が多い地区で農作業の合間の楽しみだった自治会の主な行事は地震後、休止している。」

 

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低い山からの土砂崩れの後、現在も工事が行われています。まだ地震で倒れた木々は残っていますが、崩れている山肌に小さな木々が並び、植林が施されていました。復興は、まだまだです。

 

厚真町 ご当地のおススメ>

厚真産ハスカップの「塩漬け」と「ご当地石けん」。厚真産の「さくら米」

震災後6ヶ月に買ってきたジンギスカン2種。

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< 春は足元から >

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さっぽろ雪まつりは11日に閉幕しました。札幌も今年は雪が少なく、大雪像をつくるために日本海側で雪が多く降る倶知安などからも運んできたようです。

3つの会場で、市民や各国の地域が参加した大小の雪像や氷の彫刻が201基設置されたとのことです。お天気にも恵まれた冬の祭典でしたが今年は、新型コロナウイルス発生の影響もあり、例年よりは来場者が減っています。

中国から発生し、広がっていく感染の情報を日々得ていますが、新型肺炎で死亡された方、治療中の方、また感染拡大のため足止めされている方々の不安を思うと1日も早い収束を願うばかりです。

 

さて雪まつりの大雪像も12日に解体があり、イベントはすべて終了しました。
あとは、春に向かっていくだけです。
12日~札幌の最高気温が8度以上と4月上旬から中旬並みの暖かさですが、
15日から急激に気温も低くなり、湿った雪が降るようです。
雪が降るのは月ごとで違っても、量は帳尻を合わせると言いますが、今年はどうなのでしょう。春が待ち遠しいですね。

札幌の歩道です。車道は黒々としていますが春の訪れは、まだまだ遠いです。

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★1月に帯広に行きましたので、そのうちにアップしたいと思います。

<過去に2度開催した「札幌国際芸術祭」から> ③

第1回目の芸術祭のテーマは「都市と自然」、第2回目のテーマは「芸術祭ってなんだ?」です。 (今回は写真が多く、少し長文になります)

芸術祭は音楽家大友良英氏をゲストディレクターに迎えて、2017年8月5日~10月1日まで開催されました。展示作品のほか、パフォーマンス、ライブイベント、また市民参加型もあり、市内のどこかでイベントが行われている?情報もあり、会場は44ヶ所、参加アーチスト151組と広がっていました。市内の展示作品を観て歩き、うきうきしていた気分が今も残っています。

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サブテーマは「ガラクタの星座たち」 画像は大友良英氏の作品です。
会場は道立三岸好太郎美術館。大友良英アーカイブ(お月さままで飛んでいく音) + 三岸好太郎ワークス(飛び出ス事ハ自由ダ)。多彩な展示資料を観て、大友氏が緻密に重ねてきた表現の背後には氏の冷静な目が感じとれます。

2回目の芸術祭では、画像で市民参加型のプログラムを紹介したいと思います。

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「大風呂敷プロジェクト」は、市民と一緒につくる芸術祭象徴の取り組みです。市民に布とミシン糸の提供を呼びかけて市内にボックスを設置し、工場や自宅で大風呂敷を縫う、市民全体を巻き込んだプロジックトです。私もほんの少し参加しました。デパート、JR札幌駅構内、地下歩道などに風呂敷を掲示し、芸術祭のシンボルになっていました。 この大風呂敷プロジェクトについて、下記に以前のブログを貼っておきますのでどうぞ。

 

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もうひとつの市民参加型プロジェックトに「さっぽろコレクテイブ オーケストラ」があります。
市内に住む小学生から18歳まで公募し、「音の鳴るものをもって集まれ」と約2年間ワークショップを行い、札幌コンサートホールKitara会場で披露となりました。(子供たちが音を鳴らして舞台を駆けて、実に楽しそうに演奏する2時間もの調和した音に感動しました)

オーケストラ コンダクターの大友良英氏は、パンフレットに次のような言葉を載せています。「大人の見本をなぞるのではなく、自分たちで音楽をみつけていくこと。それもひとりではなくアンサンブルの中で。そんなことを可能にする「場」を作ることがさっぽろコレクテイブ オーケストラの役目・・未来は自分たちの手で作っていくことができるということと繫がっていくような気がしています」
また、大友良英JAMJAMラジオ @kbs_jamjam の中で、市民参加型という、一般の人を巻き込むのは本当に難しい。途中でトラブルもあるが、カオスと秩序を繰り返しながらダイナミックな映像としてみせる。行政や市民を巻き込んでの芸術祭は課題も多いが芸術で地域、日本を作り上げていく一つかも知れない、それを信じている。トラブルになるから止めるのではなく、多くの人の参加で次につなげてほしい。このような内容を話されていました。オーケストラでは舞台の左手で目を細めて子供たちのいきいきした演奏を楽しむ一方、冷静な目で確認されていたと思います。同じように札幌の舞台で繰り広げる個性的な展示と音の祭典も、未来に向けて星座たちの輝きを見守っていたのではないでしょうか。未だに芸術祭が何だったのか分かりませんが、そんな気がするのです。

<最後に>

1回目の芸術祭ではアートを通して札幌の歴史や炭鉱の町、また先住民族であるアイヌ人が生きてきた時代などを顧みる機会になり、今も関心につながっています。

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(北海道近代美術館会場。岡部昌生氏の夕張炭鉱遺構のフロッタージュ作品)

2回目では市民参加型の芸術祭を見せていただきました。

★さて、3回目の芸術祭は冬季の開催と決まりました。(2020年12月19日~2021年2月14日:58日間)
冬の芸術祭が、どのように展開するのか楽しみです。

 

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