思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

2024年 1月

 

2024年が開けました。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

しばらくブログを休んでいましたが、今年は小さな 小さな絵物語(和紙で作品)を

載せていきたいと頑張っています。

 

干支は辰年、色紙に辰の成長を和紙で描きました。6つ目の大きな辰は空高く舞い上がり、振り返って小さな雪景色の街並みやようすを眺めているイメージです。

ところが1日の16時10分に能登半島地震が起きました。 驚くと同時に色紙をX(旧ツイッター)に載せないで良かったとなぜか安堵。

 

この寒い厳しい時期に地震による大きな災害、そして初動遅れは人災ともいわれている被害を想像し心がつぶれる思いです。

ただ一日も早く、命と暮らしが大切にされる日常を願うばかりです。

 

あけましておめでとうございます。


あけましておめでとうございます。 今年の干支は「卯年」ですね。みなさまの飛躍を願ってアップします。 (和紙を素材につくりました)

 

昨年は読んだ本の感想もメモ書きのままで、アップをしていませんでした。

今年は趣味の作品を少しずつアップしていきたいと思っています。

がんばります。どうぞよろしくお願いいたします。

 

特に昨年は内外にいろいろなことがありすぎました。悲しんだり怒ったりで落ち着かない感じでしたが、人と暮らしが大事される社会を願いながら、自分のできることに集中していきたいと思っています。

 

忘れられない東日本大震災。発生から11年

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★あの辛く悲惨な東日本大震災。発生から11年経ちました。(3月9日警察庁の発表から死者は1万5900人。行方不明者は2523人)★家に戻れない、ひとりひとりの「いのち」忘れてはいけないと思い、この時期に関係著書などを読んでいます。

 

<著書や映像のご紹介です>

 

(1)2021年

「リチャード・ロイド・パリー著『津波の霊たち』―3・11 死と生の物語―

<第3章の大川小学校で何があったのか>を中心とし、取材を基に内側から>

大川小学校では校庭前の運動場に50分も待機させられ、避難を始めた1分後に津波に襲われました(児童78人のうち、74人 教職員11人のうち10人が津波に飲み込まれて死亡)

「6年生の2人は担任の先生に訴えた「先生山さ上がっぺ。ここにいたら地割れして地面の底に落ちていく。おれたち、ここにいたら死ぬべや!」

 

(2)2022年

<アジアンドキュメンタリーズ> ドキュメンタリー映画「KOI 鯉」絶賛配信中!

 https://asiandocs.co.jp/con/605

バス運転手をしていた男性の妻、銀行の屋上から津波に飲み込まれて行方不明。

妻を探すためにダイビングの資格をとる、その思いを知り、ダイバーたちが協力する。

他方、悲惨な状況を見て集まったボランティアグループが海から引き揚げた遺留品や、海岸地帯を探しまわり、遺族に戻すため、海の内外での協力が行われている。

 

「忘れてはならない震災の記録を、当事者の視点で残した作品。周囲の関心が薄れていく中で、本当に支援が必要な人たちが取り残されてしまうのではないかと懸念されています。」

大川小学校で津波に流されて、行方不明児童の父親が現在も校庭に立ち当時を伝えている姿が印象的で、映像の中にあります。

 

 

★「一日一羽、一万鶴」折り鶴を折っていますが、数も曖昧になり、いつまで続けられるか‥、災害の傷跡を癒せるように願いながら折っています。

豪雪の札幌

札幌は本日も雪が降っています。

2月5日開催予定の「さっぽろ雪まつり」は、新型コロナウイルス感染拡大のため大通会場は中止しになりました。オンライン開催で楽しめるようです。

今年の1月10日頃から低気圧が発達して12日~14日頃には東北や北海道で猛吹雪。札幌も大雪になりました。札幌市は「大都市」の中でも「豪雪都市」といわれています。(令和4年1月1日現在の人口数は、1,972,381人)

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★画像はJR札幌駅まで徒歩20分ほど離れた場所です。

次は市内の南方面、真駒内の画像です。 ★(地下鉄南北線真駒内駅)、真駒内駅前にある彫刻(作家名 丸山隆 「ひとやすみする輪廻」

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五輪大橋・五輪小橋の欄干には、札幌ゆかりのある4作家によって制作された彫刻作品があります。バスの左側座席の窓から。写っていたのは2枚のみでした。

①本郷新作『花束(一対)』 ⓶本田明二作『栄光(一対)』 ③山内壮夫作『飛翔(一対)』は、欄干の入り口に、雪が盛り上がっていたのが作品だと思います。 ⓸佐藤忠良作の『えぞ鹿』『雪娘』は写っていません。

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★2011年7月に、この場所で写真を撮っていました。彫刻たちを重ねて見ていただければ作品も喜ぶと思います。

   冬季オリンピックを記念した、彫刻たち - 思いめぐらす日常のひとこま (hatenablog.jp)  

 

 

2022年 明けましておめでとうございます。

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(和紙を素材に作りました)

明けましておめでとうございます。

皆さまにとって、幸いな年となりますようお祈りしております。

ここ数年、ブログのアップも休みがちになっていますが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

この2年間はコロナ禍で落ち着かない日々を過ごすことになってしまいました。皆様はいかがでしたか? コロナ感染症が収束し、安心して暮らせる日常に戻って欲しいと願うばかりです。

昨年は政治や社会の動き、また私自身のことも含めて考える事が多いように感じました。それでも歩みを進め暮らしが過ぎていくのだと振り返っています。

今年もできる機会を大切に、あれこれ考えています。

 

ホームページのサイトから、少しずつブログに移行したいものもありますので、

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

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戦争責任をテーマとした旅、絵画。―画家 富山妙子氏の著書から ③

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★8月19日 ツイッターのタイムラインに富山妙子さんが亡くなったとの情報があり驚いています。今年の3月には韓国で共催展を開催していました。誕生月は11月ですから100歳にあと少しで残念です。ツイッターのおかげで本を通して画家の生きた証を知ることができ、感謝しつつ魂を解放して新たな一歩へと念じ、お悔やみを申し上げます。

 

幾何学的な形態のボタ山が絵のモチーフになり、ボタ山の下からは坑夫のうめき声も。

 筑紫の山々を越えた眼下に筑豊の平野には大小のボタ山が点在していた。Fさんは「ここは炭鉱が八百八丁あるといわれ、食いぱぐれた者はこの峠で思案し、煙の出るところをたずねてゆけば、なんとかなるといわれとったんです。・・」(93頁) 「・・くる日もくる日も、私は閉山のヤマをたずねてまわった。夜逃げ、坑内災害、一家離散、栄養失調—私の毎日は半飢餓地帯でみる救いようもなく暗い生活である」(99頁)

「戦後、労働運動の高揚とともに文化もまた新しい担い手としての労働者・・・人間解放と人間変革をめざし、社会環境を根底から問い直そうとする熱気がこもっていた―私もそのエネルギーに自己変革をとげたいと思う。・・私の炭鉱遍歴がはじまった。」(104~105頁)

 

<★本の紹介>

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<『筑豊炭田に生きた人々—望郷の想い【近代編】』 著者:工藤瀞也 (2008年発行/海鳥社)>

 石炭産業は地域を形成し発展した全盛時代と、エネルギー政策の転換で閉山に追い込まれていく1885年~2004までを前編として「産炭地筑豊」をまとめたのが本書です。「・・石炭産業の壊滅に伴う諸課題が集中したのが「筑豊」地域であった・・」歴史博物館 館長安蘇龍生氏の刊行文            (表紙、右の絵は千田梅二画)

 

 著者(富山氏)が「筑豊炭鉱」に行き来する頃には配炭公団が廃止され自売が始まっていました。各地で炭鉱ストが続発。(著者が北海道に渡った時に三井鉱山ストライキ「英雄なき113日のたたかい」があり、2701名への解雇に反対した労働組合側が勝利)。しかし石炭鉱業合理化の措置法で、大手14社はロックアウトを宣言して閉鎖が続き、零細企業を残す状況でした。

「・・約十年間、暗い地底や、黒ずんだボタ山の絵ばかり描き続けてきて、私のパレットには明るい歓びの色はない。・・私は自分が見えない。私は自分の個性とはあまりにもちがう暗い地底にしがみつき、何も出ない鉱脈を掘っていたのかもしれない。・・十年の炭鉱遍歴がどっと一度に疲労となってのしかかり、自分のしたことがひどく空しく思われた・・」(118頁)

 

⓶『戦争責任を訴えるひとり旅—ロンドン・ベルリン・ニューヨーク—』 富山妙子著/岩波ブックレットNO.137

(冒頭の写真)

著者は 1950年代:炭鉱をテーマに制作。 60年代:ひとり旅から第三世界をテーマに。 70年代:韓国をテーマに制作。 80年代:戦争責任をテーマに。 77年より、絵の映像化をはじめています。(本書の著者紹介より)

 炭鉱離職者の一部が南米へ移民。あるきっかけで1961年10月に「沖縄移民」で日本がチャーターした船で日本を出発し、ひとり旅がはじまりました。 第4章:南半球(苦い大地) 第5章:ソビエト・ヨーロッパ・中近東(自由とは) 第6章:インド(命の極限) 第7章:重いきずな(わが日本、わが朝鮮) 第8章:前夜(語れ夜は夜だと)と続きます。絵の色彩も鮮やかなものになっています。 少女時代にハルピンで過ごした著者は日本の中国侵略を思うと暗い戦争と、敗戦の中で日本が責任を負う意味、日本に踏みにじられた隣国の人々に思いを馳せて旅をし、「・・日本政府が欠落させている戦争責任の追求を、小さな弱者である私たちの手で行おう・・」(あとがきにかえて 373頁)と結んでいます。 旅をしながら、問いかけながら多くの作品描き、20冊ほどの代表的な出版物もあります。 (おわり)

 

★最後にひとこと。

『わたしの解放』を読んで、大正、昭和、平成の時代に押し寄せる社会の歪に、著者が果敢に挑んでいく行動力や世界の大きさに圧倒されました。その中で炭鉱産業に生きた人々の暮らしから夕張の話を思いだしました。南夕張出身の友達がいて、お兄さんは外科医でした。大きな声で「雨露しのぐ屋根があるだけでも有難いと思わなきゃ」と話すので、なんか可笑しみがあって妹さんと顔を見合わせて頷くこともしばしば。お父さんは三菱南大夕張の社員とのことですが、小さい時から炭鉱労働者の過酷な環境を見ていたのでしよう。

床に入って天井を眺めながら、この言葉を思い出します。今も新型コロナウイルス感染拡大の影響で仕事や住まいもなく、十分な補償も得られない人もいます。著者は日本主義からの「棄民」がいると、移民の問題を取り上げていますが、この令和でも社会底辺にいる人は、ある意味では「棄民」としての姿ではないでしょうか、と思うのです。

 

★私事です。ブログをあまり投稿していませんが、ホームページの方はソフトが壊れてしまい、そのままになっています。ブログと一つにしたいのですが簡単にはいかないようで思案中です。

 

長文になりました。読んでいただきましてありがとうございます。

 

戦後-炭鉱に絵画のリアリティを求めて―画家 富山妙子氏の著書から ⓶

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<著書の内容より>

①東京の美術専門学校に入学。1941年 真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入し4年後に敗戦

1932年 日本が強行に「満州国」を建立。その年に女学校へ入学する。 

1938年 ハルピン女学校を卒業後、単身で日本に帰国。女子美術専門学校に入学するが中退し、「美術工芸学院」で学ぶ。戦時下で東京も物質の窮乏と自由が失われていた。

A君と知り合い、平等であることをタテマエとし、姓名も変えずに友情によって結ばれる結婚生活。子どもは著者の戸籍に入れる。その関係も徐々に変わり通じ合えぬ深い溝ができた。その頃友人のB君との関係が深まり冷却期間を考え、A君の知り合いを通して寒村に疎開した。村では麦が盗まれたと噂が広がり、疑われるのは底辺にいるヨソ者、疎開者、序列の一番下に朝鮮人がいた。東京の友人たちと別れて孤独であったがB君が追いかけてきて一緒に住むようになり、A君は別れることをやっと納得した。寒村で生きるのに暮らし方も変えざるを得ない状況だった。1945年8月15日に終戦となる。敗戦の翌年、わずかの持ち物を現金に換えて子供と3人で東京にもどる。

 

敗戦後に生活の糧として売る絵を描いていたが、一人で生きる画家への道を選ぶ

間借りした部屋の縁側に七輪と流しをすえ、井戸から水を汲んできて炊事。隣室の柱時計の打つ音を数えて時間を知り、空箱を部屋の隅に並べて家具とし、一組のフトンに親子がくるまって寝るという貧乏などん底のなかに、B君との子供が生れた。5年が経ち絵のアルバイトで生活ができはじめた時、B君が親戚の後援でフランスに絵の勉強にゆくという。戦後生活の重圧で2人は別々の道を進むようになる、毎日話し合ってもズレが次第に大きくなる。意見の食い違いで悩み苦闘する。B君が求めるのは男たちが愛と献身をささげる「永遠の女性」と呼ぶ姿である。著者が求めた男性とは一つ一つの課題を共に考え、同じ価値を見出そうとする平等な同志であった。 「ひとりで生きる決意をしたとき、大きな手術が済んだあとのような満足感があった。しかしそれと同時に、二人まで父親を失くした子供の人生を考え、孤独という後遺症の傷がいた。心のどこかにぽっかりと大きな空洞ができたようだ。」(81頁)

 

炭鉱に絵画のリアリティを求めて、鉱山を描く決意

3度の食事にありつくため、馬車馬のように絵描きができる仕事をしてきた。5年経ったある夏、宮城県で数日間過ごした。創造の根を観念的なものに求めていたが、敗戦後の飢餓的な暮らしから人々の生き抜く姿に共感し、「鉱山を描こう」と決意する、日立鉱山の見学や写生に出かけていた。炭鉱記者が北海道の炭鉱を描くようにとの好意から、各地の炭鉱を回れる便宜が得られ、初めて冬の北海道に渡る。列車の中で昨夜、落盤死した赤平の若い炭鉱労働者の話を聞く。 「炭鉱が夕暮れの中に現れ、雪の中に立つ三角形のズリ山には飾りのように点々と電灯がともり、小さなトロッコが山頂に登ってゆく。山の斜面いっぱいに並んだ坑夫住宅のまばゆい灯の列—・・炭鉱風景であった。」(90頁)

1953年 北海道の炭鉱をテーマとしてはじめて個展を開いている。そのあと「炭鉱新聞」から特派員として不況のヤマをまわってはとの話になる。北海道の炭鉱は会社側から見たもの。今度は労働者の側に立ってヤマを見るため、福岡の「筑豊炭田」に行くことになる。   (つづく)

 

<備考>

冒頭の写真:夕張市水沢地区当時の状況。写真の掲示から。

2枚目の写真:三笠炭鉱 当時の夜景。写真の掲示から。

3枚目の写真:工夫住宅(6棟割長屋) 制作の写真掲示から。

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アートを通して、夕張、三笠の閉鎖した炭鉱町を観て歩き、当時の炭鉱労働者の悲惨な暮らしを、特に住宅から想像でき心に残っています。(社員住宅は安定した場所に建っており、風呂や居間など生活の環境が整っていますが、炭鉱工夫の住宅はズリ山の斜面に沿って6棟長屋が建ち並び、風呂もなく隣の音が筒抜けの住宅環境です)

 

戦争に巻き込まれた民衆の痛みを通して。画家 富山妙子氏の著書から。①

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戦後76年、なぜ、あの戦争が起きたのか。この夏になって特に思いめぐらしています。

世界で初めての原子爆弾が広島と長崎に投下された。あの悲惨な戦争は急に起きたのではない、なるべくして起きたと言われています。政府の思惑に巻き込まれて第二次世界大戦へと突き進み、戦争を止められなかった日本。

7月27日、ツイッターのタイムラインから流れてきた紹介の本を偶然目にし、日本が「満州国」を建立した頃に暮らしていた当時を語る良書を読むことができました。ツイッターは情報の宝庫ですね。著書からの引用で当時の状況を想像したいと思います。   (長文になります。)

 

★『わたしの解放』-辺境と底辺の旅- 著者:富山妙子(1972年初版 筑摩書房

★著者の紹介(「富山妙子画家 ホームページ」から)

1921年 神戸市に生まれる。ハルピン女学校卒業後、単身帰国し女子美術学校(現女子美術大学)に入学。その後中退し、「美術工芸学院」で学ぶ。自由美術家協会会員(1950~) 児童画、鉱山や炭鉱をテーマとする油彩画、版画、インスターレーションなど多くを制作し、各地域で個展を開催。

2021年ソウル延世大学博物館にて「記憶の海へ―富山妙子の世界」展を開催。6月に韓国政府より「大韓民国国民褒賞」受賞される。絵画とは、生きるとはを問いつづけながら戦争責任を訴えて各国を巡り、現在100歳を迎える。

 

★(本の引用から)著者が見た、戦争へと突き進む日本政府。

*少女時代は家族と旧満州、大連とハルピンで過ごす。

<「満州」とは、日本が中国領土を侵略して植民地とした国であり、人口三千万の大部分は漢民族であった。満州民族はそのうちの約八十万だが、中国東北に住む中国人全体を「満人」と呼んでいた。・・中国東北より南を「志那」と呼んでいた(当時の呼び方)> (3頁)

 

<大連の良い場所はすべて日本人が占め、中国人ははずれの、きたない志那町に追いやられていた。大連の港町には船に豆粕を積み込む中国人労働者が一万人余り働いていた。一日働いてもやっと飢えをしのぐ程度の低賃金のため、たいていの人はひどい栄養不足と、激しい労働のため平均寿命は三十代といわれていた。>(10~11頁)

 

<あるとき、近所で日本人の奥さんが満人のボーイに殺された事件があった。「あの奥さん、いつもボーイをひっぱたいたり、ずいぶんひどい扱いをしたんですって、カーっとなるわよね」・・子供の眼はありのまま素直に現実を見ようとしているのに、つねにそれを狂信的にゆがめてしまうのは、体制的な教育や教師たちであった。・・新聞には火事のとき「御真影」を守って焼け死んだ校長の美談がのっていた。生徒たちはひそひそとささやく。「写真なら焼き回しができるじゃないの」「ちがうわよ。あれは普通の写真とちがうのよ。文部省からタマワッたのだって」・・いつしか私たちの心にタブーが育った。> (13~14頁)

 

<かつて父は画家志望だったが、家庭の事情で目的が果たせなかったため、私が本気で絵の勉強をするつもりなら、場合によってはパリへ留学させてもよいという。女子美術卒業、パリ留学、文部省主催の官展特選という画家にとっての出世コースが、父の頭のなかに作られていた。・・「女学校の身で基礎もできていないのに、マチスピカソだとわけのわからぬ新しい絵の真似をしたがる」・・わたしはだまって聞き流した。・・東京さえゆけばあとはこっちらのものだ。‥パリ―・・・ハルピン駅を出発した満洲里行きの列車が・・シベリア鉄道に接続し、やがてヨーロッパに入るのだろう。私は自分の未来を追うように北満鉄鉄道の列車を見送った。>(22頁)

 

                                                                                                   ⓶へ、つづく

 

<東日本大震災が発生して10年、「山のもの、海のものが豊かに生きる」 折り鶴の世界>

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2011年3月11日14 時46分 東日本大震災が発生して10年を迎えましたが、今年の2月13日に震度6強の余震が続くとは、日常の暮らしに潜む自然災害の厳しさを感じます。

宮城県福島県震度6強という強い揺れは、どんなに怖かったかを想像します。幸いに津波は来ませんでしたが福島県には原発があります。地震の影響で福島第1原発1号機と3号機で格納容器内の水位が数十センチ低下し、1日数センチ程度のペースで続いていて、原子炉への注水などをしているなどのニュースを聞き、人間が造った災害の怖さも感じます。

10年が経ち、3県で仮設・復興住宅での「孤独死」が614人。現在、東日本大震災で行方不明者は6県で2525人(3月1日現在、警察庁の発表) 、心が痛みます。宮城県警では今年の2月に遺体の身元が分かり、約9年9ヶ月ぶりに遺族のもとに帰ることができたとのことです。遺族の思いとしては帰ってこないうちは、死を受け止めることはできないでしょう。

原発発電所がある福島県では、196人の方が未だに行方不明になっています。また、36,000人余りが県外で生活をしています。3月9日の「毎日新聞オンライントークLIVE!『東日本大震災から10年 私たちは何を伝えてきたか』」の取材から、福島ではいろいろな分断が寝深く残っているという話もあり、賠償金なども分断につながる悲しい事情です。

 

東日本大震災後から1日も早く元の暮らしに戻ってほしい願いで、一日一羽、一万鶴を折っています。2021年 3月11日までの「折り鶴」をアップしました。(冒頭の画像)

 【 今回のテーマは、 「山のもの、海のものが豊かに生きる」 折り鶴の世界 】

 ★60cm×70cmの舞台に並べました。★1日も早く普通の暮らしができるように、周囲にある身近な素材を利用しています。

(素材)背面、下面は布、観葉植物(2)、筒(4)、ガラス食器(3)★その他は色彩の折り鶴(3~4cm四方の、小さな和紙)

地域に森が茂り、山々に小動物が育み、清涼な海の藻に魚たちが群がる、生き物が住む豊かな自然環境で住民が安心して暮らすことができるよう心から願いたいと思います。

 

<最近読んだ本から>

烏賀陽 弘道著「ヒロシマからフクシマへ ―原発をめぐる不思議な旅―

写真、図や年表を入れ、文字も大きくとても読みやすい本です。著者は元朝日新聞記者。03年にフリーランスになり書籍を中心に執筆活動。福島第一原子力発電所の事故後をきっかけに、10年間、福島に通い記事を書き続けています。

(・・福島第一原発は1971年に営業運転を開始。・・その当時を知る東京電力の副社長であった豊田正敏氏は、「当時の社長から原子力は安全最優先でやってくれよ」と何回も言われたんですがね」 「最初からやっている人は『安全性神話』なんか信用していなかった。顕在化させない努力を十分やらなきゃいけないんだと、そんな感じでやっていた・・安全にはカネがかかると言うと嫌な顔をするようになった。・・安全にカネがかかる。なのに、・・安全にカネをけちるようになった」)(205頁~207頁)

★政府のエネルギー政策は民間に任せ、エネルギーの転換期には後処理も民間に担わせて撤退。そのため地域が衰退し、住民が暮らしの基盤を失う。経済優先で地域に住む人の命、生活まではで保証しない。政府は今後福島を重点に5年間で復興事業を完了との方針です。

⓶木村英昭著「―検証 福島原発事故―官邸の100時間」

福島原子力発電所事故時系列表(2011年3月11日~15日) 1頁から30頁にわたって、数分刻みで刻々と原発事故に翻弄されていく様子が表だけでも分かり、その事態の大きさに身震いします。その表に沿って、第1章~第5章に詳しく書かれています。(著者は朝日新聞社の記者)

★当時を振り返って、元菅(かん)総理に言わせたこと。

「人知、人力の及ばない不可知なところの働きが幸運な方に振れ、・・神のご加護だと言うしかない・・」この言葉が今も印象強く残っています。

 ★最後に、報道写真家 大石芳野さんの言葉を載せたいと思います(北海道新聞3月7日のインタビュー記事から)

「・・原発事故のあった福島に足が向きました。放射能は目に見えない。だからこそ撮ろうと思ったのです」 「人間を撮るんです。困っている人、悲しんでいる人、それでもたくましく生きる人・・。人ごとではない。そう思って撮ります。・・」 「見えないものを何とか伝えられないかというのが、福島に限らず私がずっと追いかけているテーマです」     (長文を読んでいただき、ありがとうございました)

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新春のごあいさつ

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三角公園を思い、年賀状を作りました。(和紙を素材に、約13cm四方の色紙)

 

明けましておめでとうございます。

 ヤフーブログから、はてなブログに移行して1年半経ち、新たなご縁に感謝しております。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

年末年始のコロナ禍緊急相談会と年越し大人食堂などの支援内容がツイッターに流れています。この1年、特に冬季の新型コロナ感染拡大はつらいもの。どうか、早くコロナが収束し安心した暮らしにと願うばかりです。

 

昔の話ですが、大阪・西成区にある「あいりん地区」(通称、釜ヶ崎)へ、ボランティア活動で休んだこともありましたが月2回通っていました。

日雇い労働者の街とも言われていましたが、この地区にはホームレスとなる方々の中に高齢者も多く暮らしています。地図にない街「あいりん地区」は、行政がつけた呼称とのことです。

ホームレスの方々は街の清掃や軽作業を行う、そんな仕事もしていたようです。

「あいりん労働福祉センター」に4年間通いました。(現在は閉鎖。建て替えなどで町が新しく整理される、再開発の方向でホームレスも減少しているとのことです)。

そのセンター前に三角公園(通称)がありました。その公園で野宿をするのですが、やはり冬期は大変つらいものでしょう。

 ボランティアは男女2班に分かれて手伝っていました。男性ボランティアは、おにぎりと毛布をもって外回り。女性ボランティアは食事つくりです。私は料理の下拵えや後始末の作業を手伝っていましたが、この食堂は定期的に店を開けており、主に高齢者を対象にし、50円、100円と代金をいただくお客様です。

駅までの帰りは車道を歩き、車が歩く人を避けるように上手に通り抜けていきます。道路の両端には酔って寝ている方々、臨時の労働作業で、その日暮らしです。また上着やズボン、下着などが歩道に広げてあり、100円・・値札が付いています(よく古着の寄付を募っていますが男性物ばかりです)

少額でもお金をいただくことで、自尊心を大切にして人間関係を築いているのです。

ある30代の男性ボランティアは「長靴が脱げなくなって・・」あいりん労働福祉センターの「相談室」に入職し、住民となって暮らすようになりました。人情味のある暮らし、誰でも受け入れる包容力、厳しさの中にも弱者に対する優しい温もりのある街として、思い出に残っています。