思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

「ちいさな絵ものがたり」 第7話:「ちい子はどこにいるの?」

(はじめに、「5~6話」を少し振り返ります。)

 ある日の夕方、仕事から帰ってきたお母さんは、台所で夕食の片付けが終わってから、居間でお父さんに電話をしました。お母さんは、お父さんを何か怒っているようです。 布団に入り、耳を澄まし電話の話を聞いていたちい子は、悲しくなりました。「そうだ、家出しよう」と決めました。次の日、ちい子は風呂敷に荷物をつめて、そっと家を出ていきました。」 < 第7話へつづく >

 

 

 

 伯父さんの畑で麦刈りを終えたお母さんは、あたりが薄暗くなる頃に帰ってきました。 家に電気がついていないので、ちい子は寝ていると思い お母さんは台所へ行って冷蔵庫にお肉をしまいました。それから「鶏小屋」と「羊小屋」を行き、戻ってきたが家の中は、まだ真っ暗なままです。

 

『ちい子、遅くなってごめんね。すき焼きができたから、起きて。』

お母さんは寝室の障子をあけて、ちい子がいないことに気がつきました。

『ちい子、ちい子~、どこにいるの〜?』

お母さんは大きな声で呼びかけました。家の中はしんと静まりかえっています。

縁側に座っていた猫のミーコと、犬のケンは、頭を下げたままじっとしていました。

 

『もし、もし、かおるちゃん? ちい子、遊びに行ってる? えっ、今日は来なかった?

隣の直ちゃんも知らないの?  お父さんに電話を代わって。』

 

 伯父さんは急いで駆けつけてきました。

『そこらへんにいないのか・・?  敏雄には知らせたのか?』

『はい。貨物列車ですぐ来るって。』

 

『ちい子~、ちい子~どこにいるんだ〜?』

かおるちゃん、直ちゃん、伯父さんとお母さんは、ちい子が夜道の草むらや木かげに

隠れていないか、呼びかけながら探しています。

 

 やっと、仕事着のままのお父さんが、みんなのいる場所へ走ってきました。

子どもたちは、川沿いにある納屋の方へ向かっています。

  伯父さんは明かりを照らしながら足早に歩き、お父さんに言いました。

『ちい子は、まあ頭の回る子だから大丈夫だ。 下の町にいるなら、交番から連絡があるから。 いつ、幌札に帰るんだ?』  『明日の昼までに荷物上げが終わるから、 昼過ぎになると思う…』

「美代ちゃんは、よくやってくれる。 いい嫁さんだ。 大事にしなきゃな。」

「うん、分かってる。 すまないね、兄さん。 心配をかけて。」

 

お母さんは「ちい子、ごめん。ごめんね…」と、小さな声で何度も言いながら、持ってきた毛布をぎゅっと抱きしめました。  

ちい子がどこにいるのか、まだ、だれにも分かりません。

                           <第8話へつづく>  

 

<東日本大震災から、15年1ヶ月過ぎました。>

 

「帰ってきてくれてありがとう」、14年7か月ぶりに抱いた6歳の娘…震災行方不明者なお2500人(3月7日 読売新聞オンラインのタイトル)

 

(記事の内容です) 2011年3月11日に発生した東日本大震災から、まもなく15年になる。行方がわからなくなっている人は、現在も2500人以上に上る(2026年3月11日 警察庁公表値2,561人)近年は新たに見つかる人も少なくなっているが、昨年、2年半以上かけて鑑定を進めていた遺骨が岩手県の6歳の女児のものであると判明した。一方、遺体も見つからず、心の整理がつけられない家族もいる。警察は捜索を続けるとともに、家族らを対象とした相談会などを開き、広く情報を集めている。(読売新聞オンライン)

 

行方不明という言葉には、胸が締め付けられるような苦しさがあります。気持ちの収めどころがないからだと思います。2026年3月11日から1ヶ月経ちましたが、雪がちらつく厳しい時期に起きた東日本大震災、今も津波の怖さが映像のように残っています。3月に近づくと行方不明のことが気になり、ブログに書いてきました。今回の記事を読んで、15年も続けて警察が捜索を続けていることに「ありがとうございます。これからもお願いします」と、願わずにいられません。

行方の分からない人たちが心温まる場所に戻ってほしい、これからも思いつづけていよう。これまで書き留めていたブログをまとめました。

 

<過去のブログ>

2011年3月16日

東日本大震災は想像を超えるできごと - 思いめぐらす日常のひとこま

 

2012年3月05日 (過去のブログにある、ヤフーブログサービスは終了しています。)

「東日本大震災を振り返って、何ができる?」 - 思いめぐらす日常のひとこま

 

2013年3月 9日

「東日本大震災から2年が過ぎていきます。本郷新作【奏でる乙女】から」 - 思いめぐらす日常のひとこま

 

2014年3月 9日

<あの日、東日本大震災から3年。> - 思いめぐらす日常のひとこま

 

<★2015年~2019年 >

この間、自然や戦争の災害がないよう、和紙で鶴を折っています。「一日1羽、1万鶴」、折り鶴の世界です。

 

(2015年 2月 2日)<氷柱、一瞬のかがやき> - 思いめぐらす日常のひとこま

 

(2016年 5月14日)熊本地震から1ヶ月。 - 思いめぐらす日常のひとこま

 

《2017年 8月 5日》終戦後72年を迎えて(2017年) - 思いめぐらす日常のひとこま

 

 

(2018年 8月 6日)広島、長崎に原爆投下 そして終戦の日(第二次世界大戦後73年) - 思いめぐらす日常のひとこま

 

(2019年 8月15日)<74回目の終戦の日を迎えて> - 思いめぐらす日常のひとこま))

 

2020年3月10日

<東日本大震災から9年経ち> - 思いめぐらす日常のひとこま

 

2021年 3月11日

<東日本大震災が発生して10年、「山のもの、海のものが豊かに生きる」 折り鶴の世界> - 思いめぐらす日常のひとこま

 

2022年 3月11日

2022-01-01から1年間の記事一覧 - 思いめぐらす日常のひとこま

 

2023年 (なし)

 

2024年 8月6日

『反戦平和の詩画人 四國 五郎』 著者 四國 (1956年広島市生まれ。四國 五郎の長男) - 思いめぐらす日常のひとこま

 

2025年

< 人を殺すのは「災害」ではない。いつだって忘却なのだ > - 思いめぐらす日常のひとこま

 

2026年、ご挨拶

 

あけまして、おめでとうございます。

ブログの更新も年々減っておりますが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

2025年の一文字、私は「偽」と表しました。「嘘」がはびこる社会は、あまり気持ちの良いものではありませんね。

 

昨年の12月31日、X(ツイッター)から流れてきた情報、年末年始の生活困窮者支援活動です。都庁前の食品配布に900人超、並んだそうです。

「1日1食」で耐える困窮者も…“物価高”深刻な状況が続く中、年末年始の「炊き出し」などを各地で実施しています。 食料の材料費とボランティアで提供していますが、殆ど個人からの寄付に頼る現状のようです。

 

新型コロナウイルス感染症の拡大で仕事や住居を失い、ひっそりと日常生活からいなくなる人たちがいました。社会的な支援の乏しさから、政府による「棄民」のように感じていました。そして現在も、貧富の差が解消されない中で政府がしなければならない役割は何なのかと、新しい年を迎えても考えてしまいます。

 

 

今年は、人に光を当てた平穏な暮らしを願う、そんな思いから和紙を素材にして年賀を作りました。(冒頭の画像)

 

少し頑張って作品を作り、これからはブログにも載せて内容を整理したいと思っています。

「ちいさな絵ものがたり」  第6話:「そうだ! 家出しょう」

 

 

 

 

 

 

 

お母さんは朝早く起きて、『にわとり』と『めんよう』のお世話で忙しそうです。

 

「ちいちゃん、今日ね、おじさんの畑で麦刈りがあるの。お肉も作るから帰るのが遅くなると思う。牛のお肉をもらうので、夜は『すき焼き』にしょうね。」

 

「お昼に、おにぎりを作って食べてね。冷蔵庫に たまご焼きがあるから。

それと、お菓子も焼いておいたので、おやつに食べて。 犬と猫にも食べ物をあげてね。」  「うん・・。お母さん、ごめんね」 ちい子はお母さんに聞こえないようにつぶやきながら、小さくうなずきました。

 

 

さて、ちい子はタンスを開けてお母さんが編んでくれた白い服と帽子を手に取りました。お気に入りの犬の縫いぐるみ、遊び道具の汽車、そして楽しみにしているターザンの絵本を、大事そうに風呂敷で包み終えました。

 

次は、お昼の準備です。「ケン、ミーコ、おいで。 おにぎりができたよ。ちい子の好きなナットウが、はいっているから。タマゴ焼きも。それから、おやつも。みんな、いっしょ、ケンカしないでね。」 ちい子は弁当箱に、おにぎりを5つ詰めました。 「にゃ~にや~ん、くさい!」と言いながらミーコは顔そむけています。ケンも鼻を近づけて匂いを嗅いでいますが、すぐに耳をふさぎました。いつもと違う ちい子のようすを見て、ケンとミーコはおち着きません。

 

ちい子の旅たちです。ケン(犬)とミーコ(猫)にゆっくり話しかけました。「これから、家出するの。だけど心配しないでね。お母さんが帰ってきて「ちい子は?」と聞いても「知らない」って言って。 大丈夫だよ、だからついてこなくていいから」。 

 

ちい子は風呂敷包みを背負い、外に出て、あぜ道を歩いていきました。

ミーコとケンは縁側で、ちい子が見えなくなるまで じっと見送っています。

 

                                                                                           第7話へつづく

 

「ちいさな絵ものがたり」  第5話:ちい子の決意

 

 

 

 

「ちい子、明日はおじさん家の仕事に行くの。朝が早いので、もう寝てね」

お母さんは少しイライラしています。

 

ちい子は布団に入りました。ミーコもいっしょです。

居間にいるお母さんを呼びました。「ねえ、お母さん、絵本を読んで」

 

「さっき、言ったでしょう。朝が早いんだから、寝なさい」

お母さんは枕もとの明かりをつけ、入口の電気を消して足早に出ていきました。

「どうしたのかな。ちい子 何かいけないことをしたのかな・・」

 

 

「どうしたの。いつかけても居ないし、仕事が忙しいって、どこに行ってるの?」

お母さんは電話をかけて お父さんを怒っているようです。

「もう、2ヶ月も帰ってこないでしょう。今、収穫で忙しいって分かってるでしょう。どこに行っているの。急行でくれば、まっすぐ3時間ぐらいで着くでしょうに。なに、やっているの」  ちい子は じっと 耳をそばだて きいていました。

お母さんはガチャンと電話を切って台所に行きました。

 

「いつも、いつも、やさしいお母さん、お母さんが かわいそう。」

ちい子は悲しくて、悲しくてフトンをかぶって泣きました。

ミーコが、絵本を開いて、「ニャン、ニャン、ニャ・・、ニャン、ニャン、ニャ・・」と、ちい子に読み聞かせています。

 

ちい子は、ある決心をしました。            第6話へつづく

あなたのとなりを見てください  ひろしまの子がいませんか

 8月6日に広島、そして9日に長崎へと原爆が投下されて1945年の8月15日正午の玉音放送により日本は全面的に降伏しました。9月2日に東京湾の米国軍ミズーリの艦上で日本の降伏文書調印式が行われて第二次世界大戦は正式に終結したのです。約6年間(1939年9月~1945年8月)に及ぶ世界規模の戦争でした。

 その悲惨な戦争で犠牲になった死者数は軍人と民間人を含めて数千万人にのぼると言われています。原爆や爆撃におびえ、また飢えの苦しみは想像を超えます。 「飢え」で思い出しましたが、被災地を見学していた小学生が「食べ物はコンビニ売っているでしょう」と。戦争がどんなものか、想像がつかないのでしょう。

 

 元衆議院議員藤井裕久さんは、田中角栄元首相の「戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ。経験者が戦争の悲惨さを教えてやれ―」の言葉が根っこにあり、政界引退後も各地を回って語っていたそうです。 

今年の参議院選挙で「核武装は安上がり」との発言もあり、怖さを感じています。

 

終戦記念日にあたって朗読詩をご紹介します。(冒頭の画像)

朗読詩『ひろしまの子』(詩 四國 五郎  絵 長谷川義史  2025年7月20日 BL出版株式会社)

一部を引用します。ひろしまの子に、ながさきの子、ガザの子・・も、いるでしょう。

★昨年の夏に紹介記事をアップした、広島出身、画家、詩人の四國 五郎さんについて

★『反戦平和の詩画人 四國 五郎』 著者 四國 光 (1956年広島市生まれ。四國 五郎の長男)

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<「はだしのゲン」創作の真実>(2)          (先の投稿(1)より続く)

『「はだしのゲン」創作の真実』 著者:大村克己(写真家) 2013年11月25日(中央公論市 新社)

 

   大村氏は2013年3月に所沢の中沢邸を訪ねました。妻のミサヨ氏に会うのは初めてとのこと、「中沢作品のすべてを知り尽くしている奥様から、自分が読んだ印象的なシ ーンのエピソードを聞けるというのは、とても贅沢な時間でした。・・」

 そして、訪問目的の「中沢先生の追悼本を創らせていただきたいのです」との申し出に、本の制作にあたって、奥様から出された条件はただ一つでした。

「大村さん、あなたが著者であるならば、いいですよ。 それは、自分自身は中沢啓治という漫画家の妻であり表現者として表に出ることをよしとしない、という強い意志でもあったのだと思います。・・この約束が守れないときは、私の考えている本が世に出ることはないと感じました。」(エピローグ 192頁~193頁より)

 

<『「はだしのゲン」創作の真実』構成>

⓵ 扉の2頁~8頁は写真集(「中沢啓治―思い出の写真」)

 両親との写真、 34歳時「週刊少年ジャンプ」に『はだしのゲン』を連載開始、 38歳時「文化評論」に『ゲン』を連載、 原画や原画展の様子、 晩年の様子など、美しい写真集です。

 

⓶ 目次(インタビュー編)

 第1章「はだしのゲン」初代担当編集者の証言(元「週刊ジャンプ」編集者・山路則   隆氏)

 第2章 人生の伴走者、妻・中澤ミサヨ氏の証言

 第3章 中沢啓治全作品の寄贈を受けて(広島平和記念資料館前館長・前田耕一郎氏)

 

 

⓷(特別収録編)

(1)はだしのゲン」第2部の草稿 (最後の頁までセリフがふってあり、ところどころに絵のポイントがメモ書きしてあります。)

中沢さんの構成では、*「はだしのゲン」第1部「原爆編」<ゲンが被曝してから妹が亡くなるまで> *第2部「戦後編」<ゲンが看板屋での修業を経て東京に旅立つ> *第3部<それ以降を書く予定>を構想していました(わたしの遺書より)

 

(2)「黒い雨にうたれて」 作品(157~186頁  中沢さんの原点です)

「母親の死で広島からの夜行列車で東京に戻り一睡もせず、白い破片が点々しているだけの骨をみて、「おふくろの骨を返せ!!」、「絶対に許さんぞ!!」と心の中で叫んでいました」 

「エレージ(哀歌)ではだめなのです。絶対に怒りなのです」

 

(中沢さんは日本政府だろうが米国政府だろうが、戦争と原爆の責任を追及してやる、漫画の中で徹底的に闘ってやる!!と覚悟を決めました。普段は短編に1ヶ月かかっていたようですが、1週間で原爆漫画第一作となる「黒い雨にうたれて」を書き上げたのです。ストーリーは被曝した青年が悪徳米国人だけを狙った殺し屋となる復讐劇です。最後の頁の1コマにメッセージが書いてあります。

 

 

★中沢さんの情熱をささえていたのは、「ふまれても ふまれても たくましい芽を出す麦のようになれ」と、父親がよく話していたこと。そして原爆投下への怒りです。その思いが好きな漫画で描くという形で実現しました。中沢さんは、「『はだしのゲン』は、わたしの遺書です。わたしが伝えたいことは、すべてあの中に込めました。」

中沢さんの願いは、映画化、アニメ化し、20ヵ国語ほどの翻訳で各国に広がっていきました。世界での戦争や紛争で脅かされる大人、そして子供たちにも、これからも読み継がれていくと思います。(長文を読んでいただきまして、ありがとうございました)

 

<「はだしのゲン」創作の真実> (1)

  暑い日が続いていますね。7月31日の岡山県高梁市では40.4℃を観測とのこと、8月2日の情報では群馬、広島地方で40℃超え、現在も東北~九州地方など猛暑日が続出し40℃超えの予想も。大変ですね。北海道でも24日の道東方面を中心に北見では39.0℃、統計史上年間を通して最も高い記録となりました。

  さて、今年は第二次世界大戦後、80年目の節目になります。1945年8月6日に広島へ、また9日には長崎へと原爆が投下されました。この暑い時期になると世界の汚点のように辛くなります。戦争のない平和な暮らしを願い、今年も読んだ本を紹介したいと思います。

 

『「はだしのゲン」創作の真実』著者:大村克己(写真家) 2013年11月25日(中央公論市 新社)

<著者の紹介> (1965年静岡県生まれ。大学在学中から活動を始め、86年APA展入選。同年JPS展で金賞(グランプリ)受賞。99年ニューヨーク・ソーホーのギャラリーにデビュー。2002年日韓文化交流記念事業「済州島」作品展を韓国と日本で発表。2009年~2012年、「NEWS ZERO」展を開催など。現在はよみうりカルチャー荻窪にて「大村フォトアート」講座開講)

 

はだしのゲン』作者の中沢啓治さんは1939年3月に広島市に生まれました。6歳の時に小学校で被爆し奇跡的に助かりました。混乱状態で小学校から自宅近くまで走り路地に入ると火の海が押し寄せ、本能的に電車通りに引き返し自分は孤児になったんだと、恐怖感につぶされそうになります。通りで近所のおばさんから声を掛けられて母親が生きていることが分かりました。母親の話によると、家族は倒壊した自宅の下敷きになり、炎が迫ってくると父親は早く逃げれ、という。姉のうめき声、助けてという弟の声、あっという間に火の海になり狂乱のようになっていた母親は近所の人に引っ張られるように逃げたのです。2人は生き延びたのです(母親はみごもっていました) 2階の物干し台にいた母親は爆風で飛ばされて助かったのです。最後は脳内出血になり3年間原爆病院に入院し60歳で亡くなりました。 

原爆投下から21年、「原爆というやつは、大事な大事なおふくろの骨の髄までうばっていきやがるのかと、はらわたが煮えくり返りました。・・・たった原爆一個のために、どれだけ多くの人間が殺されたか。その後もどれだけ多くの人々原爆後遺症に苦しめられてきたか。」(「わたしの遺書」より)

 忘れたかった原爆の体験を、母親の死がきっかけで「はだしのゲン」が誕生したのです。

 

 『「はだしのゲン」創作の真実』は、『はだしのゲン』がどのように生まれたのか、世界中にひろがっていったのか、著者の大村克己氏が取材を通して真実を著したものです。 

2011年の8月 「あの戦争を振り返る」の企画のため、ニュース番組をテーマに撮影を撮り続けていた著者は広島に同行し、この取材中に「はだしのゲン」原画も撮影しています。

2012年12月19日、中沢啓治さんは肺がんで亡くなりました(73歳) 糖尿病、そして白内障から視力低下になり、2009年に創作を断念しています。

 「ゲンは、僕自身です。漫画家仲間からも、おまえの漫画は邪道だ。子どもにああいう残酷なものを見せるな。と叱責がありました。けれど、僕は原爆をあびると、こういう姿になる。という本当のことを、子どもたちに見せなくては意味がないと思っていました。原爆の残酷さを目にすることで決して許してはならない。と思ってほしいのです」 

                        (わたしの遺書179~182頁)

 

 2013年3月、著者の大村氏は所沢の中沢邸を訪ね、妻のミサヨ氏に「中沢先生の追悼本を創らせていただきたいのです」

                (『「はだしのゲン」創作の真実』(2)へつづく)

 

 

「ちいさな絵ものがたり」 第4話:おしごと

 

「お~い、ちい子、ほら「かれい」を釣ってきたよ」

きのう、仕事が終わって遅く帰ってきたお父さん。朝早く海に行って魚を釣ってきました。 「体に気をつけろよ。あまり無理するな」 いつも隣のおじさんは言うけど、お父さんは 元気です。

 

お母さんは毛糸を作って、お店にもっていきます。春には「めん羊」の毛を刈りとって糸づくりをします。

寒くて、もくもくと着こんでいた「めん羊」は、おとなしく毛を刈り取ってもらい みがるになって元気いっぱいに動き回り牧草を食べます。クローバーが大好きです。

 

「お母さん、ちい子ね きょうは「つくし」をとってくる」「そう、それでは 今晩のおかずは玉子とじにするね」 ちい子はニワトリ小屋のとなりの畑で、フキノトウ、セリ、みつば、タラの芽、つくし・・なんでも採ってきます。おかあさんがご馳走を作ってくれます。

 

太陽が高く上り、青空がひろがってきました。きょうは、ちい子も糸づくりのお手伝い。お母さんが紡いだ糸を お父さんが洗い しぼったのをもってきました。物干し竿でゆらゆら動く糸の束を見て ちい子はうれしくなりました。

 

物干し竿の近くで、お父さんが釣ってきた魚や畑の穴から取り出した野菜を干しています。「カァ~カァ~・・」そうぞうしい。エモノを狙うカラスがすれすれに羽根を広げて降りてきました。ケン(犬)と、ミーコ(猫)は、いっしょうけんめいカラスを追い払っています。「ゥワワ~ワンワ~」 ケンは、カラスを威嚇して追いかけ回っています。 ミーコはカラスをにらみつけながらも ちゃっかりと ふところに 魚を抱え込んでいました。どこにもっていくのか・・。

                                                                                               (第5話へつづく)