<ふらふら寄り道・・、⑫啄木の暮らしと借金>

他の木に移る気ままな啄木鳥のようにもみえる木像。(小樽市文学館の展示から、2013,2,22撮影)
また、「糸切れし紙鳶(たこ)のごとくに わかき日のこころ軽くも 飛び去りしかな ―啄木―」
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啄木には借金が多いといわれている。どんな状況だったのか。
3度目の上京から、啄木の生きる姿勢が変わってきたが、借金の性質も変わってきている。
明治42年6月15日頃、金田一京助の部屋に泊った時に借金メモが残されていた。翌日に啄木は宮崎郁雨の同行で、函館から出て盛岡に滞在していた家族を「喜之床」2階に迎え入れている。
<詳細な借金メモ>
明治37年~42年6月まで、渋民、盛岡、仙台、北海道、東京と、63人の名前と借りた金額、家賃や料亭の代金などを含めて、合計、1,372円50銭の借金メモである。(啄木全集第八巻 41~43頁 宮崎郁雨「啄木の借金メモ」より、) 借金の3分の1は親族、また当時、同郷人は才能ある人を助けるという風潮が日本にあった。
<啄木の金銭感覚>
★寺を管理していた父一禎の庇護と、母カツの盲目的な愛情の中で長男として育つ。妹が羨むほどに我儘いっぱいに育てられた啄木。友達からお金を借りているが返したことがない。啄木は借金で放蕩したとのイメージが強く、私もそんなふうに捉えていた。我儘ができる環境で育った啄木には、お金は湧き出るような感じだったのかもしれない。有名人になって借金は返せる。天才詩人との夢に浮かれていた。
★北海道に渡り、生活人となるか、文学人として生きるかを悩み、啄木は小説で身を立てる決心で上京した。(19歳の時、処女詩集「あこがれ」を借金して刊行したが、売れなかった。)上京後は金田一京助の給料で一緒に生活し、小説を書き始めるが結果がでず借金を膨らませていく。
<家族との生活~明治44年10月宮崎郁雨との義絶まで>
★明治42年3月 郷里の先輩、編集長佐藤北江との面接で「東京朝日新聞社」に校正係として入社。しかし、一家を養うには十分な収入とはならない。不足分を親戚、関係者、給料の前借り、質屋に通うなど、借りたり、返済に充てたりしているが、この段階では計画性がなく、無駄な使い方をして借金する、という暮らしが続いている。

明治43年末、日記に
総収覚え書きがある。
<日記より> 明治44年4月21日の日記:「金!生活の不安がどれだけ残酷なものかは、友達は知るまい。」 4月中旬に、節子の祖母が死亡。啄木の羽織を質屋に入れ、5円の中から香典2円を送っている。借金から抜け出せないでいた。
<金田一京助と疎遠、宮崎郁雨や節子の実家と断絶した暮らし>
★明治44年10月中旬から、節子に出納帳を書かせている(人に頼らない生き方の決心)。明治45年4月13日の亡くなる迄、啄木は病魔と闘いながら、少ない給料で不足分をどうするか、常に金銭の工面を考えて計画的な借金生活になる。
<日記より>
★1月12日:熱は38度3分まで出たが、ピラミドンの薬はもうない。★14日:せつ子と京子を隣室の母と一緒に寝せることにした。★21日:母の吐血はやっぱりとまらない。・・売薬さへ買ふことが出来ないといふ事は、ひどく私を悩ました。昨夜は寝る前に、『明日か明後日少し金をこしらへるから、それまで待ってくれ』と母に言ったが、しかし別にアテがあったのではなかった。」★23日:2人の医者に母を診てもらい、結核菌をもつ肺疾患とわかり、長姉の死因まで考えて、母の病気が分かったと同時に、現在私の家を包んでいる不幸の原因も分かったやうなものである。私は今日といふ今日こそ自分が全く絶望の境にゐること・・。★24日:義兄・妹などに母親の病状を知らせ・・、母の食器は煮る事、痰は容器にとる事にした。(啄木自身は38度以上の熱で夜間は唸るような状態だったが、節子に感染の防止で指示している)★26日:私のために、また社中に義金の醵集を企てたといふ通知だった。感謝の念と、人の同情をうけねばならぬ心苦しさとが嵐のやうに私の心に起こった。さうしてそのあとには、兎も角もまとまった金が来るといふ安心感が残った。
「ほんのすこしですけれど」と下を向いて10円を差し出した時、二人とも何も言わなかった。石川君は枕をしながら堅く目を塞いだ。顔を少しうつむけて、片手を出して拝むような手まねをした。節子さんは、下を向いて畳の上へぽとりと涙を落していた。・・しばらく三人はだまりこくって泣いていた。・・石川君が一等さきに口を切って、「こう永く病んでねていると、しみじみ人の情けが身にこたえる。・・友だちの友情ほど嬉しいものがない」静かに話をして・・・。京助は私の言語学を初めて脱稿したと話すと、自分の著述でもできたように喜んでくれたりした。(金田一京助著「石川啄木」より)
<感想>
明治42年6月に家族が上京し、貧困、病気、金策の借金生活、嫁・姑の不和という、約2年間は大変な時期であったと思う。
★収入が少ない(賃金) 森 鴎外に送った手紙の中に、啄木は「中学もロクに卒業せぬ程 素養のなき私」と書いているが、働いて実感したのではないか。「東京朝日新聞」でも校正係として入社し、記者にはなれなかった。(月25円と夜勤5回で合計30円の収入。後で父も上京し、家族5人の生活費である。その他、啄木は「朝日歌壇、無名歌人の選者という仕事で、月8円の収入が加算されている。(当時の大卒は30円)
★比較はできないが、明治42年2月に「東京朝日新聞社」に入社した夏目漱石は月給200円(満州・朝鮮の旅行記などを入稿。)漱石は家族6人の生活費が足りないと、東京大学の教師(66円)と明治大学の講師(30円)を掛け持ち、月収300円ほどの収入になっている。啄木の暮らしは、生活費、住宅費、入院費用(43年に3ヶ月入院)、薬代などの出費で、借金や質屋に出入りして当面のやりくりをすることしか無かったのではないか。
★19歳~26歳までの若い啄木に、文学の道を諦めずに一家をどうやって養うのか、常に重荷として意識はあったと思う。(孫の対応で、父との口論や苦しい暮らしから、その後父一禎は家出し義兄宅へ)
★前回のブログで書ききれなかった妻と母との確執。経済的にも精神的にも追い詰められた状況で小説を書く環境にはなかった。節子と娘の京子と3人で過ごしたのは、函館での1ヶ月弱と、カツ死亡後1ヶ月ほどである。なぜ、母カツは、函館で夫、一禎と暮らさなかったのか。一禎は60代だが、義兄宅に身を寄せながらも夫婦が暮らせる収入を少しでも補うことができたのではと思う。啄木には、2回目の上京費用捻出で寺の管理費を滞納して職を解かれた父への負い目があったのか、亡くなる前に、やっと、働いてくださいと頼んでいる。母が時々上京する程度だったら、小説を書く環境も出来たのにと思う。金田一京助や宮崎郁雨の当時の記録によると、母カツの啄木に対する愛着の言動が影を落としている。啄木の日記には小説の舞台がある。啄木に小説を書く環境と、長生きして時間が十分にあったなら、後世に残る重厚な小説が楽しめたのではと、残念に思うのである。
<次回は、啄木の最後>