思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

★「ようこそ北海道へ」北海道命名150年、命名者は幕末の探検家・松浦 武四郎 ①

9月6日の震度7北海道胆振東部地震」では、札幌市で私が住んでいる地区も震度6弱と高層マンションなどの揺れは大きく、ライフラインの影響や被害がありました。2週間が過ぎても特に被害の多い地域では亡くなった方が多く、今も避難所で不自由な生活を続けています。日本の各地域での台風や地震被害が多いニュースに心を痛めております。


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北海道命名150年ということで、6月の小旅行、函館方面に行きましたのでブログに書きます。
7月に蝦夷(えぞ)を北海道と名付けた旅の巨人、松浦武四郎の特別展に行ってきました。(2018630日~826日 北海道博物館)展示内容は後で書きたいと思います。


蝦夷地図>

蝦夷図は江戸初期から作成が始まり、蝦夷地開発のため伊能忠敬間宮林蔵の実測で蝦夷地全体の地図が科学的に正確なものになっています。


幕末に武四郎は海を渡り、後半は幕府の役人として6回ほど蝦夷地を調査しています。カラフト島やクナシリ・エトロフ島まで歩き、それぞれの土地に住んでいたアイヌの人々と生活を共にしながら川、山、村などの名前を記した地図を作成しています(安政6年(1859年)「東西蝦夷山川地理取調」は、建2.4m×横3.6m経度、緯度を1枚とし、26枚組で構成)。蝦夷地を含めた北方地図にはカタカナ文字で名がびっしり書き込まれており、赤線や漢字も入れて分かり易く区分けした見事な地図になっています。

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(地図2枚は、著者山本 命「幕末の探検家 松浦武四郎」より)

蝦夷地の探検ルート>
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            (上記の画像は先の著書より)


4回目の調査は、樺太(サハリン)などを歩き、その後に武四郎は重病になります。函館で過ごし病を何とか乗り越え、5回目の調査では安政4年(1857年)、丸木舟で川を渡り、石狩川など川筋の調査のため内陸部に入っていきます。武四郎は石狩川に合流する豊平川から遡った札幌を京都に見立て、この豊かな大地に府を置くことを即座に提案しています。

豊平川の渡し守、志村鐵一>

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当時の豊平川は現在位置と違っているようですが、橋が架かるのは明治になってからです。その頃は渡し舟で行き来していました。


安政六年に幕命を受けた「志村鐵一(てついち)」は、信州から海を渡って蝦夷に入り、豊平川の渡し守と通行屋の任としてこの近くに定住していました。志村は未開地の札幌に単身で来て明治初めの橋が完成するまで10年間渡し守を、その後も宿屋として橋を守っていました。しかし、幕府寄りと冷淡に処遇された志村は悲運な運命を辿ります。


豊平川は札幌市の市街を流れて石狩川に注ぐ石狩川支流の河川です。私が現地に行った当日は昨夜の大雨のためか、流れが速く濁流で水量もけっこうありました。明治頃の水量は今の5倍ほどあったそうです。

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現在、「札幌開祖」志村鐵一碑は、昭和42年の新豊平橋の完成時に近くの小公園に移動し、プレミアホテル(ルネッサンスサッポロホテル)の敷地内、豊平川に沿った幹線道路に面していますが、分かりづらい場所にひっそりと建っていました。(豊平区豊平4条1丁目1-1)       

                                   つづく
(★地図の配置がうまくいきません、お読みいただきありがとうございます。)