思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

★道内のJR駅シリーズ白石駅  菊水地域の豊平川 ③

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大正時代には白石菊水に遊郭が建ち、豊平川沿いは特に貧しい人々が住む「札幌の貧民窟」と言われていました。また戦後には外地から引き揚げてきた人々がバラック建てに住み、「サムライ部落」とも呼ばれていました。悲しい思いと苦しい生活が想像できますね。大正時代に貧しい家庭の子弟にも教育との思いから、札幌農学校教授をしていた新渡戸稲造が無償の「遠友夜学校」を開校しました。


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「遠友夜学校」では、札幌農学校の教師や学生がボランティアで教え、小説家の有島武郎も運営に参加して後に代表になっています。有島は家族と一軒家を借りて、明治43年5月~1年ほど、夜学校から豊平川を渡ったリンゴ園の一角、今の菊水1条1丁目に住んでいました。豊平川東側の小さな公園の向かい側に跡地があり、借家は「北海道開拓の森」に移設しています。


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家は一般的な造りですが、上げ下げができる洋風の窓を取り入れるなど、室内も和洋折衷。有島は居間の障子を開けて小説の構想を練りながら周囲のリンゴ園を眺めていたでしょう。 洋画家の木田金次郎が17歳の時に有島宅を訪ねました。有島の小説「生れ出づる悩み」は画家がモデルと言われています。 


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『或る日』 和紙を素材に描いてみました。(F10号)

 

木田金次郎は17歳のある日、数枚の絵とスケッチしたのを丸めて有島家を訪ねました。

「有島は金次郎が恥ずかしげに差し出す絵を一枚一枚ピンで止めたり、立てかけたりして、じっと眼を注いだ。 そして、<個性的な見方をしてある>(先生を憶ふ)と、率直にほめた。やがて夫人の安子も座に加わった。」・・。 「有島の言葉に、やってゆけそうだ。」 二人の対面は、ある測りがたい力の導いた運命的な出会いであったというべきである。 (「有島武郎の世界」第2章:114頁~115頁)

 

「これほどにも私を郷土と郷土を描く仕事にむすびつけたものはなんだったのだろう。それはいうまでもなく有島武郎とのめぐりあいだった。「生れ出づる悩み」に描かれた通りの有島との交流が当時の私に、世に隠れたひたむきな画家として生きる道を決めさせたのだった。」生誕120年を迎えて特別展(「KIDA KINJIRO」図録より)

 

当時、有島は札幌農学校の英語教師で(現在の北海道大学)、美術部サークル「黒百合会」の顧問をしていました。札幌はじめ、北海道の画家たちに大きな影響を与え、サークルは現在も活動しています。

 

木田が61歳の時に、洞爺丸台風による「岩内大火」で自宅の他、殆どの作品を焼失(約1500点の作品)。周囲の励ましから失意を乗り越えてひたすら絵を描きます。

北海道ニセコ近くの故郷、岩内町で生涯画家として生き、69歳に脳出血で亡くなりました。 (岩内町の港湾近くに「木田金次郎美術館」があります。)