木田金次郎は17歳のある日、数枚の絵とスケッチしたのを丸めて有島家を訪ねました。
「有島は金次郎が恥ずかしげに差し出す絵を一枚一枚ピンで止めたり、立てかけたりして、じっと眼を注いだ。 そして、<個性的な見方をしてある>(先生を憶ふ)と、率直にほめた。やがて夫人の安子も座に加わった。」・・。 「有島の言葉に、やってゆけそうだ。」 二人の対面は、ある測りがたい力の導いた運命的な出会いであったというべきである。 (「有島武郎の世界」第2章:114頁~115頁)
「これほどにも私を郷土と郷土を描く仕事にむすびつけたものはなんだったのだろう。それはいうまでもなく有島武郎とのめぐりあいだった。「生れ出づる悩み」に描かれた通りの有島との交流が当時の私に、世に隠れたひたむきな画家として生きる道を決めさせたのだった。」生誕120年を迎えて特別展(「KIDA KINJIRO」図録より)
当時、有島は札幌農学校の英語教師で(現在の北海道大学)、美術部サークル「黒百合会」の顧問をしていました。札幌はじめ、北海道の画家たちに大きな影響を与え、サークルは現在も活動しています。
木田が61歳の時に、洞爺丸台風による「岩内大火」で自宅の他、殆どの作品を焼失(約1500点の作品)。周囲の励ましから失意を乗り越えてひたすら絵を描きます。
北海道ニセコ近くの故郷、岩内町で生涯画家として生き、69歳に脳出血で亡くなりました。 (岩内町の港湾近くに「木田金次郎美術館」があります。)