思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<岩内町郷土館の展示を観て> 特記。

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岩内バスターミナルから徒歩で20分ほどの位置するところに、郷土館があります。
冒頭の写真のワイン色は建物ではありません。「野生ホップ発見の地」と書いてありました。
郷土館は岩内町制施行70年を記念して設置したものです。
岩内の語源はアイヌ語。館内入口の上に絵が掛かっていました。1857年頃、松浦武四郎アイヌ人や和人を伴って岩内の地に立っている大きな絵です(制作者?)
 
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<岩内の大火>
1954年(昭和29年)の台風、15号がもたらした大災害。岩内でも町の8割が全焼するという、火災惨事が起こりました。高台にある木造アパートの出火が下町に飛び火し、海に流れるとの予想が、風向きが急に変わって町をぐるりと総なめして住宅は火の海になったのです。港湾燃料用のドラム缶に引火した爆発と強風が大火になったのでしょう。2割の住宅がある高台まで逃げ遅れた33人が、一角に集中して亡くなっています。溺死や行方不明者もいましたが、当時の新聞は台風による洞爺丸沈没の海難事故を大々的に取り上げ、岩内火災の記事は下段の方に、小さく載っていました。(洞爺丸では、死者・行方不明者を合わせて1155人が亡くなっています。)
号外なども出し、事実と違う内容も。大きな惨事に慌てたのでしょう。当時の混乱ぶりが想像できます。
 
 
岩内町と文芸>
木田金次郎と有島武郎の交流資料の他に、岩内を訪れた作家、夏目漱石の戸籍謄本も。22年間も岩内に放置していた?らしい。
小説家、長田幹彦の話が面白い。早稲田大学の在学中に北海道を放浪し、岩内にも数日間滞在している。町を舞台に幾つかの小説も書いていて、純文学というより、大衆小説家と言われ、婦人読者が多かったとのこと。
晩年には文壇から遠ざかり、心霊学に熱心だったようです。遺品分けで早稲田大学と折半。当時の人が岩内を舞台にした小説関係の資料を大学の方に渡してしまい、惜しいことをしたとのお話。ただ、小説家は竹下夢二と親しい関係だったので、遺品の整理から夢二の未発表の原画が4枚出てきて、思いがけない展示物になったようですね。
 
もう一つ、特記すべきこと。小説家、水上勉は岩内の大火資料を観て、推理小説飢餓海峡」を書くきっかけになりました。ご存知のように映画、テレビ、舞台で制作化しています。岩内町にアマチュア劇団が誕生し、市民参加の「飢餓海峡」を2003年から、岩内町斜里町、札幌、そして2005年には水上勉の生誕地、福井県の大飯町国民文化祭で公演を行っています。
 
 
<子育て地蔵尊
この木像はマリア観音像とも言われているようですが、調査をしても事実は分からないとのこと。実物を実際に見て、これはキリシタン信者が持ち込んだものではないかと思うところがあります。像を背負うようにできている後ろ側に十字のような形も。また描かれている文様が信仰のシンボルにも見える。幼子の表情は大人びていて、前を向いている。像の足元には3本のローソク立てがあり、これは三位一体への祈りか?等々、思いがけない地蔵尊に出会い、歴史を確かめる機会、私の一つの発見でした。
 
1614年に、キリスト教を信じる者への弾圧「キリシタン禁教令」が発布。京都・大阪の
70世帯余りが北海道南端、福島近くにある「千軒岳金山」に流刑地として来道しています。その頃、仙台や東北からも弾圧から逃れて砂金採集労働者に紛れ込んだ信者もいました。その後、禁止令が強化され106名の信者が、この山で殉教しています。その弾圧から道内の奥に逃れて、岩内町伊達紋別で生活した形跡もあるようです。
 
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写真は記事の内容と関係ありません。
 
 岩見沢で。
 山田吉泰作「母と子」
  (岩見沢市中央公園内)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<最後に、郷土館前に植えてあった野生ホップの花>
 
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これから実になるそうで、花を押し広げたら白い粉のようなものが出てきました。
これがホップ。ビールの原料ですね。
明治4年開拓使の外国人が岩内町の郊外で野生ホップを発見しました。
サッポロビール」設立の起源は、この苗を札幌に移植し、山鼻の土地では野生のホップ畑が一面に広がっていたそうです。麦の原料とともに「サッポロビール」の誕生ですね。
今も引き継いでいるのが、星印のマーク。岩内と意外な関係があったのです。
 
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