★松浦武四郎が見た、蝦夷地を支配する松前藩 ⑤
さて、道南の「上の国町」から「松前町」に入り、北前船の寄港跡地にある道の駅「北前船松前」で昼食。松前は北海道の最南端に位置し、江戸時代には商品を運ぶ買積船の寄港で繁栄した町です。道内で唯一の城郭がある松前藩屋敷や寺院が多い城下町、桜の名所とも言われています。天守閣近くの松前公園や桜見本園など4月下旬から5月中旬頃まで多種の桜が満開になり街に彩りを添えます。

(松前城前にある、北海道の桜開花を知らせる古木の桜です。)
1849年(嘉永2年)幕府は北方警備のために、松前「17世の崇弘」に「福山館」の改築を命じています。本格的な城の設計で、1854年(安政元年)に完成した「松前城」は、日本式の木造城郭という最後の城になっています。


<幕末の松前藩>
蝦夷地は幕府が支配し、中世時代には罪人などの流刑先となっていたようです。秀吉~家康時代には朱印状を通して松前藩は徐々に成立していきます。藩は蝦夷地の交易窓口として、主に課税の収入で生計を得ていました。松前を中心にした領域を和人の地とし、他はアイヌ領域と区分して物を交換する、アイヌ人との友好な関係を結んでいました。しかし、コメが採れない課税収入だけの藩財政は大変だったようです。
1457年頃、道南方面でアイヌ民族と和人が全面的に戦争をしています(コシャマインの戦い)。あるきっかけで先住民が蜂起し破れましたが、小競り合いがその後も続いています。アイヌと和人との間に不平等な交易もありました。松前藩は徐々に出費が重なり、家臣に一定の場所でアイヌ人との交易を認めて収益を給料にみなすとし、家臣が交易を商人に任せたのが「場所請負制」です。商人に「運上金」を幕府に納めさせ、アイヌ民族に自由な移動を禁じて交易を制限していきました。
1789年に蝦夷地の東部、道東方面でアイヌと和人が衝突。(クナシリ・メナシの戦い)。和人商人がアイヌ人に対する過酷な状況にアイヌが蜂起し、和人に多数の死者が出る一方、蜂起中心のアイヌ人は処刑される痛ましい事件になりました。松前藩は幕府から咎められないよう騒動の収束と藩の存続のため26歳の画人蠣崎波響に命じ、波響は幕府に協力したアイヌの酋長12人をモデルに「夷酋列像」を描きました。画家は筆を走らせて幕府を救ったと言われ、多くの作品も残しています。
さて、32歳の松浦武四郎は1849年(嘉永)に3度目の蝦夷地調査をします。結果を地図と日誌で調査記録35冊にまとめて発表しました。アイヌの人々と生活を共にしながら蝦夷地図を作成し、先住民アイヌの人々が、どのような暮らしにあったのか、事例をあげて詳細に書いています。
松前藩の圧政や商人の悪徳な行為はアイヌ民族の受難と報告し、和人がアイヌ民族を使役として苦しめている原因は藩の「場所請負制」にあると批判しています。この調査記録は中央では評判となりましたが、調査を協力していた松前藩の役人や商人は「なんなんだよ」激怒でしょう。その後、武四郎は39歳まで蝦夷地に渡っていません。松前藩から目を付けられ、商人の怒りを買い、個人として蝦夷地の探索が難しい状況だったのでしょう。
現政府の沖縄及び北方対策担当は石井国土交相です。日本を守る目的で、南方と北方の地域では歴史的に強いられた経緯もあります。明治2年に蝦夷地が北海道と命名されてから150年。松浦武四郎が歩いた北海道の南方面を辿っていましたが、武四郎が見た先住民の主権はどうだったのか、もう少し続けたいと思います。
