広島、長崎に原爆投下 そして終戦の日(第二次世界大戦後73年)
一日一羽、一万鶴
(舞台は、60㎝×70㎝と決めています)
各地域の悲惨な自然災害から、過去の戦争から、人の温かい心と行動で平和な暮らしにつなげられるように願い、
( 東日本大震災後、2,705羽 )
★今後、ホームページから移行し、ブログに載せていきたいと思います。
有島記念館、北海道ニセコ町
先日、有島記念館に行ってきました。(2018年6月9日は有島武郎の命日、生誕140周年、また3代目の有島記念館40周年と重なった日となり、有島も応えてか、コンサートの場所で遺影を移動する際に落下しそうになり、ひやっとした場面も。)現在の記念館は北海道ニセコ町の自然豊かなに場所に建っています。札幌から高速バスで道の駅「ニセコビュープラザ」まで3時間弱かかり、そこから徒歩20分ほどに位置しています。
当日は命日である「星座忌」が行われており、入館料無料でコンサートなどもありました。有島武郎は白樺派で活動した小説家です。「相互扶助」の思想から、有島は大正期に所有していた広大な農場を小作人に無料で開放(共生農団)し、戦後の農地改革を経て有島の精神を伝えるために記念館を設立しています。
★個人的なことですが、ホームページのソフトが故障しアップできなくなりました。作品などを載せていましたが、今後はこのヤフーブログで一本化したいと考えています。(「表現の素材 和紙」)現在までの掲載分は、ネットで閲覧できるのでヤフーブログに、ホームページのアドレスを常時表記できる方法を工夫したいと思います。
ブログ掲載をご無沙汰していますが、今後は頑張りたいと思いますので宜しくお願いいたします。
2018年になりました。
昨年はすっかりご無沙汰しておりました。
今年からは少し余裕ができそうで、ブログのアップ回数を多くしたいと考えています。また、みな様のブログにもお伺いいたします。
<「札幌国際芸術祭2017」(芸術祭ってなんだ?)>を観て(2) 一市民の感想
前の席で演奏していた子供たちが席を立って、リズムに合わせてイキイキと動き回わり、指揮をやりたい、やりたいと音の鳴るものを持ちながら演奏の前で飛び跳ねているのです。大友氏からは「指揮者が見えるように」との一言だけ。2時間も動き回る子供たちのパワーは凄い。大きな舞台で緊張どころか、練習の成果を楽しんでいるようでした。最後は参加しているギター演奏者を囲んで座り、名前を連呼する「名前の歌」。自分の名前を呼ばれて皆と唄う笑顔に感動しました。個々の集まりがアンサンブルを仕上げたということでしょうか。終幕には並んで客席に挨拶をするでもなく、子供たちがぞろぞと舞台から居なくなり、忘れ物を取りに男の子が戻ってきたので笑ってしまいました。
大友良英JAMJAMラジオ @kbs_jamjam の中で、市民参加型という、一般の人を巻き込むのは本当に難しい。途中でトラブルもあるが、カオスと秩序を繰り返しながらダイナミックな映像としてみせる。行政や市民を巻き込んでの芸術祭は課題も多いが芸術で地域、日本を作り上げていく一つかも知れない、それを信じている。トラブルになるから止めるのではなく、多くの人の参加で次につなげてほしい。このような内容を話されています。
「札幌国際芸術祭2017」(芸術祭ってなんだ?)を観て。(1)
2014年にスタートした国際アートフェスティバル(SIAF)、前回のゲストディレクターは音楽家の坂本龍一氏、そして3年後のゲストディレクターは音楽家の大友良英氏です。「芸術祭ってなんだ?」がテーマでサブテーマは「ガラクタの星座たち」です。大友氏はイサム・ノグチが設計した「モエレ沼公園(ゴミ捨て場をアートで再生した公園)に立ち、サブテーマが浮かんできたとのことです。札幌市内を大きく7つほどのエリアに分けて会場は44か所。同じ場所でもその日によって内容が変わり、行くたびに楽しめる仕掛けもあるようで、なかなか私には把握できない状況です。今回は会場や作品を紹介するよりも、テーマの「芸術祭ってなんだ?」が気になっていますので、私が感じたことを書きたいと思います。
(ミニ大風呂敷)
終戦後72年を迎えて(2017年)
この度、九州や東北方面、また各地域で記録的な豪雨に見舞われました。また大型の台風が近づいていますので、心配しています。一日も早く安心できる暮らしができますように心から願っております。
こころと暮らしの回復を願って折り鶴を折っています。「一日一羽、一万鶴」の世界を作りました。(冒頭の画像)
周囲にある身近な素材を利用しています。
(60cm×70cmの舞台に並べました)
2017年、新年のご挨拶
今年は、みな様にとっても幸いな年でありますよう
11月1日、北国はいよいよ冬へ。
表紙の前に作成した、「北海道知事館の庭園」をアップします。
そろそろ、サイトに載せていこうと思っています。
これからも宜しくお願いします。
<ふらふら寄り道・・最終、⑯「啄木は今も函館で永遠の眠りに」(2)
お墓は公園の裏門から出て、市電「谷地頭」駅に近い場所にあります。函館山の南端、立待岬に向かって坂道を行く途中に共同墓地がありました。徒歩では難儀でしょう。細い道の両側に沿ってお墓が建っていて、その最後の場所に「石川啄木一族の墓」が建っています。先の(1)ブログでは、「啄木小公園」から海の向こう側に函館山が見えていました。お墓のある場所からは、小公園がある町並みや啄木が散歩した大森浜が一望できます。お墓は立待岬にぽつんと建っているイメージとは違って、そこに住む人々と付き合ってきた旅人の啄木に相応しい環境だと思います。
さて、墓標横がある狭い階段を上がりました。石を重ねたような階段、雨も降っていたので滑りそう。そこからブロック塀をまわった左手にお墓が一つ。その奥に啄木一家のお墓があり、お花が供えてありました。正面と後ろに刻んだある文字は読めません。正面は啄木の歌「東海の小島の磯の白浜に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」(啄木がノートに書いていたのを拡大)、裏面には啄木が死ぬ時は函館に行って死ぬという、郁雨宛ての手紙の内容が彫ってあります。宮崎郁雨の発案で、ロシアに強い関心のあった啄木の想いを汲み、北方を正面に日露境界標石を模した将棋の駒のような形をしているお墓のようです。ひとつ置いたお墓の最後に、宮崎郁雨一族の墓」と郁雨の歌碑がありました。
★著書の紹介:阿部たつを著・桜井健治編「啄木と函館」(定価:1,240円)。当時の写真が豊富で、啄木の足跡を訪ねる函館市内案内地図の差し込みもあり、読みやすい本です。
親子を通して啄木と雨情はつながっているようですね。啄木と雨情は札幌で出会い、小樽で本を出版しようと理想に燃え「いや~、あの時は良かったね」と、あちらの世界で酒を酌み交わしているかも知れませんね。北海道で結んだ縁は今も続いていると想像します。 啄木への足跡を読んで頂きありがとうございました。