思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

広島、長崎に原爆投下 そして終戦の日(第二次世界大戦後73年)

【 折り鶴の世界 】

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    一日一羽、一万鶴


★4cm×4cm四方の小さな和紙で折っています(しんなりした和紙)

★折り鶴の世界は、自然災害の回復、また平和で普通の暮らしを願う折り鶴たちです。

(舞台は、60㎝×70㎝と決めています)




各地域の悲惨な自然災害から、過去の戦争から、人の温かい心と行動で平和な暮らしにつなげられるように願い、

2018年8月5日までの「折り鶴」をアップします。(16回目)

( 東日本大震災後、2,705羽 )

  【 折り始めてから、2,185羽 】

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★今後、ホームページから移行し、ブログに載せていきたいと思います。


 (1回目~15回目の「折り鶴の世界」は、下記のホームページ「表現の素材 和紙」に載せています。)


ホームページアドレス  http://www.geocities.jp/reimei_tear_5/






有島記念館、北海道ニセコ町

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先日、有島記念館に行ってきました。(201869日は有島武郎の命日、生誕140周年、また3代目の有島記念館40周年と重なった日となり、有島も応えてか、コンサートの場所で遺影を移動する際に落下しそうになり、ひやっとした場面も。)現在の記念館は北海道ニセコ町の自然豊かなに場所に建っています。札幌から高速バスで道の駅「ニセコビュープラザ」まで3時間弱かかり、そこから徒歩20分ほどに位置しています。


当日は命日である「星座忌」が行われており、入館料無料でコンサートなどもありました。有島武郎白樺派で活動した小説家です。「相互扶助」の思想から、有島は大正期に所有していた広大な農場を小作人に無料で開放(共生農団)し、戦後の農地改革を経て有島の精神を伝えるために記念館を設立しています。

記念館入口の右側は、有島武郎の生涯や書籍などの常設展示室になっています。展示室は西洋風のレンガ仕様で各コーナーには当時の農場で使用した道具類や洒落た置物、装飾が施されています。展示室に大きな窓が多く、厚手のカーテンを少し開けると外の景色と一体感があります。また入口左側にブックカフェ、ミュージアムショップ、アートホール(コンサートや講演会などを開催)、特別展示室があります。展示室は絵画などの企画展、創作発表の場として提供し、当日にはイラストレータ貼り絵作家の藤倉英幸氏の北海道の風景画などが展示されていました。(記念館に約1200点を寄贈されている)。有島が絵を描いていたこともあり(北海道大学で英語教師、絵画「黒百合会」の顧問)、特別展示室はその意思を継続する目的のようです。

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記念館の外で来訪者が鐘を鳴らしていた場所は(有島武郎像の後方に鐘、右隣りのこんもりした蔦の内部が修道院)、有島武郎の小説「クララの出家」の修道院をモチーフにした造りです。ニセコを舞台に有島の小説では、「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「親子」があります。


当日、道の駅「ニセコビュープラザ」の裏側に食事もできるパン屋さんがオープン。テレビ放映もあったのか来客の行列、時間節約のため「道の駅」前の向かい側にある蕎麦屋さんで「だったんそば]を食べ1時ごろに記念館へ。帰りは雲から見え隠れしている羊蹄山に見おくられ、高速バスで札幌に戻りました。

(当日の羊蹄山と、数年前の5月頃に撮った写真です。)
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個人的なことですが、ホームページのソフトが故障しアップできなくなりました。作品などを載せていましたが、今後はこのヤフーブログで一本化したいと考えています。(「表現の素材 和紙」)現在までの掲載分は、ネットで閲覧できるのでヤフーブログに、ホームページのアドレスを常時表記できる方法を工夫したいと思います。

ブログ掲載をご無沙汰していますが、今後は頑張りたいと思いますので宜しくお願いいたします。









2018年になりました。

新春

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             (和紙を素材に作ってみました)

新春のお喜びを申し上げます。
みな様のご健康とお幸せを、心からお願い申し上げております。

昨年はすっかりご無沙汰しておりました。

今年からは少し余裕ができそうで、ブログのアップ回数を多くしたいと考えています。また、みな様のブログにもお伺いいたします。

今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

<「札幌国際芸術祭2017」(芸術祭ってなんだ?)>を観て(2) 一市民の感想

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930日の朝、東区にある「モエレ沼公園」に行ってきました。芸術祭閉幕の前日です。私用のため音楽祭には参加できず、演奏が行われる場所に大風呂敷を敷き詰めるイベントに、1時間ばかり参加してきました。イサム・ノグチ設計の公園、最大の造形山「モエレ山」や「ガラスのピラミッド」を背景に、広さ約1万平方メートルの大風呂敷が鮮やかに広げられました。(10メートル四方の大風呂敷100枚) 冒頭の画像はイベントの様子です

「大風呂敷プロジェクト」は市民と一緒につくる芸術祭象徴の取り組みです。回収ボックスを札幌市内イオン7店舗、札幌市役所や区民センターなどに設置して布とミシン糸の協力を呼びかけ、大風呂敷工場には色とりどりの布が山積みになっていました。大風呂敷縫いは、工場の他に学校やサークル、施設などの団体や自宅で縫う個人参加などで市民全体のプロジックトになっていました。

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芸術祭のテーマは「芸術祭ってなんだ?」です。美術館で絵を観るから少し分野を広げて関心を持ちはじめた私は、赤い表紙小冊子の観賞ガイドを丸めて持ち歩き、市内で行われている展示と音の場に佇んで、「なんだ?」の体験でした。芸術祭が終幕し淋しい感情の中にも温かい余韻が残り、何なんだろう・・・。子供盆踊りに行くため、好きなアザミ模様の浴衣に赤い帯を締めながらウキウキ感のよう。

もうひとつ、市民参加型のプロジェックトに「さっぽろコレクテイブ オーケストラ」がありました。札幌コンサートホールKitaraを会場に16:0018:04までの演奏、市内に住む小学生から18歳までのアンサンブルです。音の鳴るものをもって集まれの公募で約2年間、各分野の講師や協力でワークショップを数回行い本番での披露でした。

オーケストラ コンダクターの大友良英氏は、パンフレットに次のような言葉を載せています。「大人の見本をなぞるのではなく、自分たちで音楽をみつけていくこと。それもひとりではなくアンサンブルの中で。そんなことを可能にする「場」を作ることがさっぽろコレクテイブ オーケストラの役目・・未来は自分たちの手で作っていくことができるということと繫がっていくような気がしています」

 前の席で演奏していた子供たちが席を立って、リズムに合わせてイキイキと動き回わり、指揮をやりたい、やりたいと音の鳴るものを持ちながら演奏の前で飛び跳ねているのです。大友氏からは「指揮者が見えるように」との一言だけ。2時間も動き回る子供たちのパワーは凄い。大きな舞台で緊張どころか、練習の成果を楽しんでいるようでした。最後は参加しているギター演奏者を囲んで座り、名前を連呼する「名前の歌」。自分の名前を呼ばれて皆と唄う笑顔に感動しました。個々の集まりがアンサンブルを仕上げたということでしょうか。終幕には並んで客席に挨拶をするでもなく、子供たちがぞろぞと舞台から居なくなり、忘れ物を取りに男の子が戻ってきたので笑ってしまいました。


1011日にさっぽろコレクティブオーケストラ」ってなんだったんだろう?を振り返るトークセッションに行き、難しい事は分かりませんが、市民が参加する芸術祭の雰囲気を確かに受け取ることができました。

大友良英JAMJAMラジオ @kbs_jamjam の中で、市民参加型という、一般の人を巻き込むのは本当に難しい。途中でトラブルもあるが、カオスと秩序を繰り返しながらダイナミックな映像としてみせる。行政や市民を巻き込んでの芸術祭は課題も多いが芸術で地域、日本を作り上げていく一つかも知れない、それを信じている。トラブルになるから止めるのではなく、多くの人の参加で次につなげてほしい。このような内容を話されています。


大友さんの著書「音楽と美術のあいだ」(2017.3 フィルムアート社発行)を読んで、最後の10月1日は道立三岸好太郎記念館開催の大友良英アーカイブと決めていました。展示を観て、大友氏は冷静で緻密に一つ一つを積み重ねて努力していく、そんな姿勢を感じました。他人も自分も楽しめるような取り組みは、相当の忍耐力と成長するという信頼感がなければ、そして根底には受容と確信のようなものがあるのだと思います。
 オーケストラでは舞台の左手で目を細めて子供たちのいきいきした演奏を楽しむ一方、冷静な目で確認されていたと思います。同じように札幌の舞台で繰り広げる個性的な展示と音の祭典も、未来に向けて星座たちの輝きを見守っていたのではないでしょうか。未だに芸術祭が何だったのか分かりませんが、そんな気がするのです。

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第1回の札幌国際芸術祭は坂本龍一氏のゲストディレクターで近代化された札幌の街をアートで振り返り、第2回は大友良英氏のゲストディレクター札幌の街にある忘れられたものに光をあて、市民参加の種をまいていきました。次回の芸術祭にはどんな芽が出て花が咲くのか、一市民として3年後の芸術祭が楽しみです。(ツイッターで行政担当者がノリノリで・・とのつぶやきを読んでホッとしました。行政の協力、影の努力は芸術祭を支える大きな柱だと思います)

「札幌国際芸術祭2017」(芸術祭ってなんだ?)を観て。(1)

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木々の葉が色づきはじめ、うろこ雲、ひつじ雲、すじ雲、かすみ雲、9月中旬頃には重たい雨雲などが広がり、秋の季節が少しずつ近づいてきました。ニユースでは台風18号の上陸で九州や西日本方面などが暴風雨になり、北海道にも影響が出ているようです。被害が少ないようにと願うばかりです。

さて、札幌では「札幌国際芸術祭2017」が開催されています。(8.610.1

2014年にスタートした国際アートフェスティバル(SIAF)、前回のゲストディレクターは音楽家坂本龍一氏、そして3年後のゲストディレクターは音楽家大友良英氏です。「芸術祭ってなんだ?」がテーマでサブテーマは「ガラクタの星座たち」です。大友氏はイサム・ノグチが設計した「モエレ沼公園(ゴミ捨て場をアートで再生した公園)に立ち、サブテーマが浮かんできたとのことです。札幌市内を大きく7つほどのエリアに分けて会場は44か所。同じ場所でもその日によって内容が変わり、行くたびに楽しめる仕掛けもあるようで、なかなか私には把握できない状況です。今回は会場や作品を紹介するよりも、テーマの「芸術祭ってなんだ?」が気になっていますので、私が感じたことを書きたいと思います。


冒頭の画像は、市内のあるデパートに吊るされた大風呂敷です。この大風呂敷は10m×10mの大きさでパッチワーク様に縫い合わせています。2011815日、福島の「四季の里」での音楽祭フェスティバルに使用した時の1枚です。福島では約60枚(6000平米)の大風呂敷を芝生に繰り広げた風景は壮観だったようです。


10代に福島市で過ごされた大友氏は音楽家遠藤ミチロウ氏、詩人の和合亮一氏と中心になって「プロジックトFUKUSHIMA!」を立ち上げ、原発事故後の福島の印象をポジティブな言葉で世界中に発信する音楽祭を行いました。フェスティバルの場所を専門家にも確認し、参加者がセシウムの不安がないように会場の芝生に大風呂敷を敷きました。音楽祭には大勢の住民が訪れて共に楽しむことができたと大友氏はネット配信の中で感動的に話されています。
大風呂敷作りは大変な労力が要りますが、この意味を繋げて大風呂敷を広げたお祭りが、愛知、池袋、多治見など全国に広がっていき、札幌では2014年から大風呂敷を広げて「北3条広場」で盆踊りのイベントになって毎年行われるようになりました。今回の芸術祭に大風呂敷は「プロジェクトFUKUSHIMA!」と札幌大風呂敷チームが協働して、札幌市内の各所に展示されています。今年は大々的な取り組みから札幌チームは大通にあるビルの4階に工場を設けて、述べ1,700人以上もの参加者が大風呂敷づくりに参加しています。芸術祭のシンボルとして大風呂敷が各所に展示されていますが、その中で3枚の画像をアップします。

(ミニ大風呂敷)

1m×1m
1m×2.5m
2.5m×2.5m
3種類からサイズを選び、好きなパーツで縫い合わせて、ミニ大風呂敷を作っています。

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(札幌駅JR タワーコンコース内)







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(JR札幌駅東改札口に向かう、地下インフォメーション)






                                   
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 地下鉄さっぽろ駅~大通駅

(地下歩行空間)










8月27日に、芸術祭のプロジックトのひとつ、札幌コンサートKitaraで開催の「さっぽろコレクテイブ・オーケストラ」を観賞しましたが、大風呂風敷作りと共通するものを感じました。(オーケストラは小学生から18歳まで誰でも参加できる、2年半のワークショップを経て作り上げてきたオーケストラです)。


次回には、芸術祭で私が受け止めたこと、感じたことを書きたいと思います。
「札幌国際芸術祭2017」(芸術祭ってなんだ?)を観て。(2)につづく。                    


(参考資料:「福島大風呂敷」「サカナ通信」「大風呂敷プロジェクトに参加しょう」等)


(★涼しくなり、元気になりました。ブログを休みがちですが、今後も続けていきたいと思います。皆さまのブログにもお邪魔させていただきます。どうぞ宜しくお願いいたします)


終戦後72年を迎えて(2017年)

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暑中お見舞いを申し上げます。

この度、九州や東北方面、また各地域で記録的な豪雨に見舞われました。また大型の台風が近づいていますので、心配しています。一日も早く安心できる暮らしができますように心から願っております。


最も暑いこの時期、86日に広島へ、また89日には長崎へと原子爆弾が投下されました。苦しみを経て現在も様々な問題が残っています。戦争のない平和な国、社会でありますよう願うばかりです。
終戦から72年、そして東日本大震災から6年経ちました。

こころと暮らしの回復を願って折り鶴を折っています。「一日一羽、一万鶴」の世界を作りました。(冒頭の画像)


  <201785日>

  折り鶴:1,811羽  
    (東日本大震災後 2,331日)
 
  素材 
     折鶴:和紙
     背面、下面:布
     ニット上着

★平和で普通の暮らしができるように
周囲にある身近な素材を利用しています。
 
(60cm×70cmの舞台に並べました)


ブログをしばらく休み、みな様のブログに出かけるのもご無沙汰しておりました。できる範囲内でブログをアップしたいと思いますので、これからも宜しくお願いいたします
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2017年、新年のご挨拶

あけまして、おめでとうございます。
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   (子どもたちが、安心して暮らせる社会を願って、和紙を素材につくりました)

今年は、みな様にとっても幸いな年でありますよう

お願いしております。
 
ブログをしばらく更新していませんが、今年は少しがんばって、
アップしたいと思っています。
これからも、どうぞ宜しくお願いいたします。

   

11月1日、北国はいよいよ冬へ。

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北海道の初雪は早く、札幌も1020日に初雪が観測されました。16年ぶりの早い記録だそうです。予想では、今日も湿った雪が降りそうです。寒くなりました。

パソコンが不安定でダマシながら使っていますが、ブログのアップもご無沙汰していました。その分、コツコツ作品を作っていますが、小さくて飛ぶような和紙を重ねるので、なかなか完成しません。やっと、「あり子」の表紙が出来上がりました。

表紙の前に作成した、「北海道知事館の庭園」をアップします。

そろそろ、サイトに載せていこうと思っています。

これからも宜しくお願いします。


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<ふらふら寄り道・・最終、⑯「啄木は今も函館で永遠の眠りに」(2)

さて、前回のつづきです。(パソコンが不安定のため、啄木への道、最終ブログのアップがたいへん遅くなりました)


【5】函館公園の裏門からタクシーで→「石川啄木一族の墓」へ。

お墓は公園の裏門から出て、市電「谷地頭」駅に近い場所にあります。函館山の南端、立待岬に向かって坂道を行く途中に共同墓地がありました。徒歩では難儀でしょう。細い道の両側に沿ってお墓が建っていて、その最後の場所に「石川啄木一族の墓」が建っています。先の(1)ブログでは、「啄木小公園」から海の向こう側に函館山が見えていました。お墓のある場所からは、小公園がある町並みや啄木が散歩した大森浜が一望できます。お墓は立待岬にぽつんと建っているイメージとは違って、そこに住む人々と付き合ってきた旅人の啄木に相応しい環境だと思います。

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お墓の建立に、宮崎郁雨や節子の実家、堀合家が室蘭の娘宅に同居していた啄木の父一禎の意向を確認し、そちらで適当に処置して欲しい旨の返事を得ています。最初、関係者と当時の函館図書館長は現在より少し下方の場所に木標のお墓を建てました。現在のお墓は大正15年に建立しています。啄木、節子、母カツ、長男真一、その後、長女京子の夫・石川正雄によって、長女京子、次女房江、父一禎が入り、そして昭和43年に正雄が入って一族8人が永眠しています。

 さて、墓標横がある狭い階段を上がりました。石を重ねたような階段、雨も降っていたので滑りそう。そこからブロック塀をまわった左手にお墓が一つ。その奥に啄木一家のお墓があり、お花が供えてありました。正面と後ろに刻んだある文字は読めません。正面は啄木の歌「東海の小島の磯の白浜に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」(啄木がノートに書いていたのを拡大)、裏面には啄木が死ぬ時は函館に行って死ぬという、郁雨宛ての手紙の内容が彫ってあります。宮崎郁雨の発案で、ロシアに強い関心のあった啄木の想いを汲み、北方を正面に日露境界標石を模した将棋の駒のような形をしているお墓のようです。ひとつ置いたお墓の最後に、宮崎郁雨一族の墓」と郁雨の歌碑がありました。


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上の方で待っているタクシーの近くまで行き、バックがないのに気付き、また入口の階段を上がって探したら啄木のお墓の前にちょこんと置いてありました。そんなことで慌ただしいお墓参りになりました。車は一方通行なので、帰りは函館山の中、新緑のトンネルを通って市電「谷地頭」駅に着きました。




【6】市電「谷地頭」→「青柳町」→3つ目の「宝来町」で下車し、茶房「ひし伊」へ。
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「ひし伊」は市電駅から、徒歩で7分ほどにあります。


建物は質蔵でしたが、喫茶店に改造し現在は4代目が経営しています。啄木が3度目の上京後、函館で節子は義母と娘の京子とこの近くで暮らしていました。郁雨が節子に、啄木の犠牲になっていると言ったが、手紙で節子は啄木の才能を信じていると書き、最後に質に入れている利子だけでも貸して欲しいと無心しています。生計のために節子もこの質屋に出入りしていました。


店内の天井は高く、落ち着いた雰囲気で建物様式を残したままです。小さな旅の余韻に浸りながらケーキセットをいただきました。美味しかったです。
市電で函館駅に戻り、あたふたとスーパー北斗に乗り込んで、ふと考えました。啄木のお墓の前で、きちんと手を合わせていなかったように思うのです。次回に機会があったら、「いい旅をさせていただき、ありがとうございました」と手を合わせて、語ることができればと思っています。

★著書の紹介:阿部たつを著・桜井健治編「啄木と函館」(定価:1,240)。当時の写真が豊富で、啄木の足跡を訪ねる函館市内案内地図の差し込みもあり、読みやすい本です。


最後に、資料を読んでいて面白いことに気が付きました。作品や業績を継承することで、東京で啄木と同居暮らしをした金田一京助が関与して「啄木会」を作り、啄木の作品を世に広める働きをしています。ところが、京助の長男、金田一晴彦は野口雨情の「雨情会」の顧問を引き受けているのです。

親子を通して啄木と雨情はつながっているようですね。啄木と雨情は札幌で出会い、小樽で本を出版しようと理想に燃え「いや~、あの時は良かったね」と、あちらの世界で酒を酌み交わしているかも知れませんね。北海道で結んだ縁は今も続いていると想像します。 啄木への足跡を読んで頂きありがとうございました。


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今年も、戦争のない平和な暮らしを考える。


暑い毎日、暑中お見舞いを申し上げます。


1945年8月6日に広島、9日には長崎への原子爆弾投下。日本は世界で唯一の被爆国といわれています。今年も日本の平和を考える時期になりました。

現在も、被爆した心身の痛みを抱えて、悲惨な過去の出来事を語り継いでいる方々がいます。憲法改正に向けた動きの中で、いのち、平和、個人の自由が守られるようにと切に願います。
戦争をしない平和のために、また地震などで大災害に遭った方々が以前のような暮らしができるように、毎日鶴1羽を折っています。

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「平和のちから」

一万鶴の世界、今回の舞台は大きな鶴2羽が代表になりました。


8月5日現在:
折り鶴(1,454羽)
    (1,974日目)
素材:
和紙、布、大皿1枚 花瓶

舞台:
60cm×70cm



これからも、暑さが続きます。どうぞ熱中症に注意し、体調を整えて涼しい秋に向けてお過ごしくださいますよう。かなり暑い北国からご挨拶を申し上げます。

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