<詩人瀧口修造が、小樽で過ごした跡地を訪ねて>①
今年の5月中旬~6月末まで、小樽市文学館と小樽市美術館との同時開催で「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」の展覧会が開かれていました。その時代に生きた表現者として瀧口修造の中に詩と美術が、ひとつに溶け込んでいました。私には難しい内容だったのですが、全体を通して分かりやすい展示方法でした。
瀧口修造は1903年に、富山県で医業を営む祖父の後を継ぐ父の、長男として生まれましたが、稼業を継がず芸術に興味があったようです。夏目漱石に手紙を送ることもあったとか。その頃、12歳の時に父親が急死しています。中学に入学すると、絵や詩などに興味を持ち、会誌に詩を投稿したり、近代の洋画家や詩人などの本を読んだりしていたとのこと。 19歳の時に母親を急に亡くし、肉親の縁が薄い寂しい青少年時代を送ったようで、特に長女の姉を慕っていました。(姉は、嫁いで小樽に住んでいます)
さて、岩内からの帰路は、高速バス「いわない号」に乗って、小樽の「花園公園通」で下車。詩人瀧口修造が青年時代に過ごした跡地を辿るためです。
まず、バス前方の信号を渡り、右側にある「グリーンロード」の坂道を上がっていくと、小さな公園で子供たちが遊んでいました。このロードは「花園小学校」まで続いています。学校の右側下に住宅があり、この辺に「島屋」があったとのこと。建物の表札に「島・・・」とありました。現在は親戚の方が家を建て替えて住んでいるようです。ここが「島屋」の跡地です。
(図録から、当時の「島屋」)
小樽の花園に、姉たちが文房具や手芸などの店「「島屋」を開き、修造も手伝っているようです。修造は22歳(訂正、20歳)の時、関東大震災に遭い、在学中の慶應義塾大学に退学届を出して大正12年12月に東京から小樽の姉宅に身を寄せていました。
姉の薦めで小樽から東京に戻った修造は、1925年に慶應義塾大学文学部に再入学し、西脇順三郎に5年間教わっています。西脇から西洋の最新の動きを学び、モダニズ詩やシュルレアリスムを知った瀧口修造は、後に近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家ともいわれるようになりました。戦前・戦後に日本における正統シュルレアリスムの理論を展開しています。
難しいことは別にして、今回の目的は瀧口修造が小樽に住んでいた時の場所や歩いたらしい所を辿ることです。
次回には簡単な地図で再度、確認したいと思います。(つづく)
<最後に>
★先日、市立小樽文学館で開催中の「佐川ちか」展を観てきました。
彫刻家、鈴木吾郎展を紹介していたブログです。