思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道、石川啄木の跡地を訪ねて②(札幌「偕楽園緑地」)>

21歳の石川啄木は明治40914日に札幌入りし、北区北7条西4丁目の田中サトさんが営む下宿2階の一間を借りている。妻子を呼び寄せて3人で暮らすことにしていたのだが、小樽での新聞社創立に関わるため、927日妻子が滞在している小樽の次姉宅に行くことになった。次姉トラは山本千三郎と結婚しており、義兄は当時小樽中央駅(現JR小樽駅)の駅長をしていた。

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啄木下宿先の情報は、昭和50年頃に北区広報に掲載。その内容を平成19年に発行した「エピソード・北区」の9799ページに再掲している。
情報をもとに前のブログで気になった「北七条郵便局」の経緯をまとめる。               
                            (覚書)            
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画像は、現在の「北七条郵便局」
 (北区北7条西6丁目6)







①明治37年 北区北7条西5丁目4番地に開業。初代局長が田中下宿向かい側の「北七条郵便局」で事業を開始する。
②明治3911日 北7条西5丁目から西4丁目4番地に移転(田中下宿の隣)
 ★「田中さん、下宿屋をなさっていた田中さんですか。その方なら私の家の隣でしたが・・でも田中さんは確か明治四十一、二年頃(一九〇八,一九〇九)年ごろ引っ越されたですよ。で、私たち一家は隣から田中宅へ移ったんです。」(明治41年に田中サトは二人の娘と朝鮮に移住している。)壇上勲さんが78歳の時お話。当時2階に啄木が滞在していたとは分からなかったらしい。年齢から推測すると2代目の局長さん・・?「・・その場所ですか。せがれのいる七条の郵便局ですよ。」

★現局長さんのお話では、昭和57年頃の記録に田中宅を購入したとあるが、記録された局長さんが2年前に亡くなっているので経緯は、はっきりしないとのこと。壇上勲さんの「せがれさん」が3代目局長で記録化を?
③平成9年 7条西5丁目にある旧総合簡易研修センター1階に移転。
④平成198月末ごろに研修センターを売却。「ジンギスカン義経」隣の売却跡に平成25年頃、27階の高層ビル(マンション)が建設されている。
平成19828日~現在地、7条西6丁目6 北苑ビル1階に移転。

「北七条郵便局」が啄木の下宿跡地なのだが、その郵便局が12丁目の距離で4回も移転していた。都市という流動性、刻々と日々変わっていく街並みを想う。

さて、顔見知りになった「札幌北スカイビル」の管理人さん、「今度は、どこを探しているのですか? 北七条郵便局の前を通り過ぎてから細い斜め道路に入ると、右側に「偕楽園緑地」がありますよ」(北7条7丁目)
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この庭園の奥の方に啄木の歌碑がある。啄木が没して100年を経た記念として、平成24年9月15日に「札幌に啄木の歌碑を建てる会」の有志によって建てられたもの。近くにライラック花が咲いていた。

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「アカシヤの街木越(ナミキ)にポプラに 秋の風  吹くがかなしと日記(ニキ)に残れり」
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明治42年「スバル」11月号に載せた一首。啄木は414月頃に北海道から離れて上京している。「かなし」とは心が惹かれて自然が素敵だという意味らしい。
庭園の後方に、札幌市指定有形文化財「清華停」がある。明治~大正期には新渡戸稲造、宮部金吾、内村鑑三有島武郎など現在の北海道大学の関係者が使用していたこともある。札幌市の中心部に川が流れていたところを埋めて都市を建設したのであろう、偕楽園緑地緑内にも川が流れていた形跡がある。
昨年の「札幌国際芸術祭2014」のテーマは都市と自然で、「清華停」も開催会場の一つになっている。芸術家毛利悠子氏は磁力、光、温度などで動くインスターレーション作品を制作し、鐘の音を聴きながらいつまでも座っていたい居心地の良い空間になっていた。
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それでは、次回は啄木さんの登場です。