思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

<ふらふら寄り道・・、⑦<啄木は故郷の渋民村から、函館へ>


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「船に酔ひてやさしくなれ(る)

  いもうとの眼見ゆ

   津軽の海を思へば」

       (啄木の歌)




★啄木は故郷の渋民を追われるように旅立つ

 「一家離散とはこれなるべし。昔は、これ唯小説のうちにのみあるべき事と思ひしものを」と、明治4054日の日記に書いている。啄木は渋民村を離れて(現在の盛岡市玉山区渋民)、妹の光子と連絡船に乗り函館に向かっていた。父石川一禎は野辺地にある寺の住職伯父のもとに。母カツは隣村の親戚宅に。妻節子と娘の京子を盛岡の実家にと、それぞれに身を寄せている。
 父一禎は住職で一家は「宝徳寺」に住み、2人の姉と妹の中でひとり息子の啄木は自由奔放に暮らし中学時代には交友関係も広かった。ところが啄木が2度目の上京中に、父一禎が本部への支払いを滞納していたのが問題になり住職の罷免処分を受けて寺を出ることになった。この事は20歳の啄木が一族を扶養しなければならないという、貧困の根本的な要因にもなっている。生活基盤を失い、懐かしい思い出の場所から追われるような旅たちであった。啄木はその後一度も故郷の土を踏んでいない。(「兄啄木の思い出」三浦光子の著書を参考に)


★啄木は自由な場所を求めて函館へ

 啄木は3度上京している。14歳頃から文学に目覚めて「岩手日報」などに投稿し、明治3510月に中学校に退学届を出して上京。与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねて文学への道を夢見たが、挫折と苦悩で病気になった。父一禎が迎えに行き故郷で療養生活をする。徐々に意欲、自信を回復し投稿などで「天才啄木」と噂も出はじめていた。
 啄木は書きためた処女詩集「あこがれ」の発行で一躍有名になる夢を描いて2度目の東京行きを明治37年の1031日、1度目と同日に決行し、東京帝国大学在学中の金田一京助を訪ねた。金田一は同郷の盛岡中等学校卒、4つ歳上で啄木との交友関係がある。その時の装いは「五つ紋の紋付に白の絹紐をどさりと結び、仙台平の袴を引きずるように着けて、上等のタバコをパッパッとふかしながら、背延びをするようにステッキを突っかって胸を張って歩いたのだった・・」と、金田一は書いている。どうも借り物のようである。啄木日記などに、正式な場所に出向くのによく親戚や知人から紋付・袴を借りたとある。
 堀合節子とは婚約の状況で結婚生活の準備費もあるのだろう、啄木は詩人・文学者として生計を立てるために翌年の5月に「あこがれ」を出版する。しかし売れるどころか出版費用の借金までつくり当てが外れて失敗に終わっている。
 394月に渋民の小学校代用教員として勤めるが、12月には長女京子の誕生も加わり給料8円での暮らしは困窮していた。明治404月に校長排斥のストライキに関係し村内で騒動が起きた。石川啄木の小説「雲は天才である」に校長や教育への不満を書き綴っている。村に反するものはよそ者扱いである。故郷に居づらくなり東京に出たくても余力がないので函館に新天地を求めている。
当時函館では『紅苜蓿(べにまごやし)』文芸誌が誕生し啄木も投稿していた。函館に一時滞在したい旨の手紙を送り、メンバーは名の知れた啄木の参加を歓迎する。
   (「石川啄木金田一京助の著書、「啄木を支えた北の大地-北海道の
                     三五六日-」長浜 功の著書を参考に)
 
 啄木は2度、北海道に渡っている。自由な雰囲気の函館で上京への準備を考えていたのかもしれない。函館には妻節子の伯母夫婦や父堀合忠操の従弟が住んでいる。次女の夫、山本千三郎は小樽駅長であり函館行きの決め手にもなったのではないか。

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5代目の函館駅舎は、2005年にデンマーク国鉄との共同作業の建物です。チタンの質感を生かしたモダンな造りで船をイメージしているようです。残念ですが新幹線の乗り入れはありません。北海道新幹線の駅は、「新函館北斗駅」で、当駅を結ぶアクセスは、「はこだてライナー」です。(追記:北海道新幹線(新青森新函館北斗館)は、平成28年3月26日に開業し、東京から新函館北斗まで4時間弱とのこと、札幌から網走までは5時間30分も。やはり新幹線は早いです。)

★啄木と節子           イメージ 3

啄木は明治19210日生まれ、節子は8ヶ月後の1014日生まれ。14歳時に2人は知り合い、節子は就学率が30パーセントに満たない時代に盛岡女学校(現在は白百合学園)に入学している。新しい教育を学び、バイオリンを弾き、英語を話し文学に憧れをもっていた。寡黙であるが気の付く芯のある女性だったという。啄木は節子の清純なイメージを重ねて「白百合の君」と呼び、「我ならぬ我」と啄木にとって節子は生涯にわたって重要な存在になる。節子も啄木に求めたのは文学者、詩人として生きることで、共に夢を語ることを楽しみ全幅の信頼を寄せていた。  (右画像は和紙を素材に作りました)

 
2人は6年後、明治38年に結婚する。啄木は式のため520日に東京を発ち仙台に立ち寄り、その後行方が分からないまま欠席の中で結婚式が行われた。66日バイオリンをみやげに妻が待つ新居に帰っている。生活基盤のない啄木には役所勤めの実直で厳格な節子の父が苦手で非難を恐れたのではないか、また金策で心当たりを探していたとの説もある。
    (「忘れな草 -啄木の女性たち-」山下多恵子の著書、 
       「石川啄木の友人―京助、雨情、郁雨―西脇 巽」の著書を参考に)       

次回は函館での生活と出会い。                 つづく