思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

「札幌国際芸術祭2017」(芸術祭ってなんだ?)を観て。(1)

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木々の葉が色づきはじめ、うろこ雲、ひつじ雲、すじ雲、かすみ雲、9月中旬頃には重たい雨雲などが広がり、秋の季節が少しずつ近づいてきました。ニユースでは台風18号の上陸で九州や西日本方面などが暴風雨になり、北海道にも影響が出ているようです。被害が少ないようにと願うばかりです。

さて、札幌では「札幌国際芸術祭2017」が開催されています。(8.610.1

2014年にスタートした国際アートフェスティバル(SIAF)、前回のゲストディレクターは音楽家坂本龍一氏、そして3年後のゲストディレクターは音楽家大友良英氏です。「芸術祭ってなんだ?」がテーマでサブテーマは「ガラクタの星座たち」です。大友氏はイサム・ノグチが設計した「モエレ沼公園(ゴミ捨て場をアートで再生した公園)に立ち、サブテーマが浮かんできたとのことです。札幌市内を大きく7つほどのエリアに分けて会場は44か所。同じ場所でもその日によって内容が変わり、行くたびに楽しめる仕掛けもあるようで、なかなか私には把握できない状況です。今回は会場や作品を紹介するよりも、テーマの「芸術祭ってなんだ?」が気になっていますので、私が感じたことを書きたいと思います。


冒頭の画像は、市内のあるデパートに吊るされた大風呂敷です。この大風呂敷は10m×10mの大きさでパッチワーク様に縫い合わせています。2011815日、福島の「四季の里」での音楽祭フェスティバルに使用した時の1枚です。福島では約60枚(6000平米)の大風呂敷を芝生に繰り広げた風景は壮観だったようです。


10代に福島市で過ごされた大友氏は音楽家遠藤ミチロウ氏、詩人の和合亮一氏と中心になって「プロジックトFUKUSHIMA!」を立ち上げ、原発事故後の福島の印象をポジティブな言葉で世界中に発信する音楽祭を行いました。フェスティバルの場所を専門家にも確認し、参加者がセシウムの不安がないように会場の芝生に大風呂敷を敷きました。音楽祭には大勢の住民が訪れて共に楽しむことができたと大友氏はネット配信の中で感動的に話されています。
大風呂敷作りは大変な労力が要りますが、この意味を繋げて大風呂敷を広げたお祭りが、愛知、池袋、多治見など全国に広がっていき、札幌では2014年から大風呂敷を広げて「北3条広場」で盆踊りのイベントになって毎年行われるようになりました。今回の芸術祭に大風呂敷は「プロジェクトFUKUSHIMA!」と札幌大風呂敷チームが協働して、札幌市内の各所に展示されています。今年は大々的な取り組みから札幌チームは大通にあるビルの4階に工場を設けて、述べ1,700人以上もの参加者が大風呂敷づくりに参加しています。芸術祭のシンボルとして大風呂敷が各所に展示されていますが、その中で3枚の画像をアップします。

(ミニ大風呂敷)

1m×1m
1m×2.5m
2.5m×2.5m
3種類からサイズを選び、好きなパーツで縫い合わせて、ミニ大風呂敷を作っています。

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(札幌駅JR タワーコンコース内)







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(JR札幌駅東改札口に向かう、地下インフォメーション)






                                   
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 地下鉄さっぽろ駅~大通駅

(地下歩行空間)










8月27日に、芸術祭のプロジックトのひとつ、札幌コンサートKitaraで開催の「さっぽろコレクテイブ・オーケストラ」を観賞しましたが、大風呂風敷作りと共通するものを感じました。(オーケストラは小学生から18歳まで誰でも参加できる、2年半のワークショップを経て作り上げてきたオーケストラです)。


次回には、芸術祭で私が受け止めたこと、感じたことを書きたいと思います。
「札幌国際芸術祭2017」(芸術祭ってなんだ?)を観て。(2)につづく。                    


(参考資料:「福島大風呂敷」「サカナ通信」「大風呂敷プロジェクトに参加しょう」等)


(★涼しくなり、元気になりました。ブログを休みがちですが、今後も続けていきたいと思います。皆さまのブログにもお邪魔させていただきます。どうぞ宜しくお願いいたします)


終戦後72年を迎えて(2017年)

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暑中お見舞いを申し上げます。

この度、九州や東北方面、また各地域で記録的な豪雨に見舞われました。また大型の台風が近づいていますので、心配しています。一日も早く安心できる暮らしができますように心から願っております。


最も暑いこの時期、86日に広島へ、また89日には長崎へと原子爆弾が投下されました。苦しみを経て現在も様々な問題が残っています。戦争のない平和な国、社会でありますよう願うばかりです。
終戦から72年、そして東日本大震災から6年経ちました。

こころと暮らしの回復を願って折り鶴を折っています。「一日一羽、一万鶴」の世界を作りました。(冒頭の画像)


  <201785日>

  折り鶴:1,811羽  
    (東日本大震災後 2,331日)
 
  素材 
     折鶴:和紙
     背面、下面:布
     ニット上着

★平和で普通の暮らしができるように
周囲にある身近な素材を利用しています。
 
(60cm×70cmの舞台に並べました)


ブログをしばらく休み、みな様のブログに出かけるのもご無沙汰しておりました。できる範囲内でブログをアップしたいと思いますので、これからも宜しくお願いいたします
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2017年、新年のご挨拶

あけまして、おめでとうございます。
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   (子どもたちが、安心して暮らせる社会を願って、和紙を素材につくりました)

今年は、みな様にとっても幸いな年でありますよう

お願いしております。
 
ブログをしばらく更新していませんが、今年は少しがんばって、
アップしたいと思っています。
これからも、どうぞ宜しくお願いいたします。

   

11月1日、北国はいよいよ冬へ。

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北海道の初雪は早く、札幌も1020日に初雪が観測されました。16年ぶりの早い記録だそうです。予想では、今日も湿った雪が降りそうです。寒くなりました。

パソコンが不安定でダマシながら使っていますが、ブログのアップもご無沙汰していました。その分、コツコツ作品を作っていますが、小さくて飛ぶような和紙を重ねるので、なかなか完成しません。やっと、「あり子」の表紙が出来上がりました。

表紙の前に作成した、「北海道知事館の庭園」をアップします。

そろそろ、サイトに載せていこうと思っています。

これからも宜しくお願いします。


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<ふらふら寄り道・・最終、⑯「啄木は今も函館で永遠の眠りに」(2)

さて、前回のつづきです。(パソコンが不安定のため、啄木への道、最終ブログのアップがたいへん遅くなりました)


【5】函館公園の裏門からタクシーで→「石川啄木一族の墓」へ。

お墓は公園の裏門から出て、市電「谷地頭」駅に近い場所にあります。函館山の南端、立待岬に向かって坂道を行く途中に共同墓地がありました。徒歩では難儀でしょう。細い道の両側に沿ってお墓が建っていて、その最後の場所に「石川啄木一族の墓」が建っています。先の(1)ブログでは、「啄木小公園」から海の向こう側に函館山が見えていました。お墓のある場所からは、小公園がある町並みや啄木が散歩した大森浜が一望できます。お墓は立待岬にぽつんと建っているイメージとは違って、そこに住む人々と付き合ってきた旅人の啄木に相応しい環境だと思います。

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お墓の建立に、宮崎郁雨や節子の実家、堀合家が室蘭の娘宅に同居していた啄木の父一禎の意向を確認し、そちらで適当に処置して欲しい旨の返事を得ています。最初、関係者と当時の函館図書館長は現在より少し下方の場所に木標のお墓を建てました。現在のお墓は大正15年に建立しています。啄木、節子、母カツ、長男真一、その後、長女京子の夫・石川正雄によって、長女京子、次女房江、父一禎が入り、そして昭和43年に正雄が入って一族8人が永眠しています。

 さて、墓標横がある狭い階段を上がりました。石を重ねたような階段、雨も降っていたので滑りそう。そこからブロック塀をまわった左手にお墓が一つ。その奥に啄木一家のお墓があり、お花が供えてありました。正面と後ろに刻んだある文字は読めません。正面は啄木の歌「東海の小島の磯の白浜に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」(啄木がノートに書いていたのを拡大)、裏面には啄木が死ぬ時は函館に行って死ぬという、郁雨宛ての手紙の内容が彫ってあります。宮崎郁雨の発案で、ロシアに強い関心のあった啄木の想いを汲み、北方を正面に日露境界標石を模した将棋の駒のような形をしているお墓のようです。ひとつ置いたお墓の最後に、宮崎郁雨一族の墓」と郁雨の歌碑がありました。


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上の方で待っているタクシーの近くまで行き、バックがないのに気付き、また入口の階段を上がって探したら啄木のお墓の前にちょこんと置いてありました。そんなことで慌ただしいお墓参りになりました。車は一方通行なので、帰りは函館山の中、新緑のトンネルを通って市電「谷地頭」駅に着きました。




【6】市電「谷地頭」→「青柳町」→3つ目の「宝来町」で下車し、茶房「ひし伊」へ。
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「ひし伊」は市電駅から、徒歩で7分ほどにあります。


建物は質蔵でしたが、喫茶店に改造し現在は4代目が経営しています。啄木が3度目の上京後、函館で節子は義母と娘の京子とこの近くで暮らしていました。郁雨が節子に、啄木の犠牲になっていると言ったが、手紙で節子は啄木の才能を信じていると書き、最後に質に入れている利子だけでも貸して欲しいと無心しています。生計のために節子もこの質屋に出入りしていました。


店内の天井は高く、落ち着いた雰囲気で建物様式を残したままです。小さな旅の余韻に浸りながらケーキセットをいただきました。美味しかったです。
市電で函館駅に戻り、あたふたとスーパー北斗に乗り込んで、ふと考えました。啄木のお墓の前で、きちんと手を合わせていなかったように思うのです。次回に機会があったら、「いい旅をさせていただき、ありがとうございました」と手を合わせて、語ることができればと思っています。

★著書の紹介:阿部たつを著・桜井健治編「啄木と函館」(定価:1,240)。当時の写真が豊富で、啄木の足跡を訪ねる函館市内案内地図の差し込みもあり、読みやすい本です。


最後に、資料を読んでいて面白いことに気が付きました。作品や業績を継承することで、東京で啄木と同居暮らしをした金田一京助が関与して「啄木会」を作り、啄木の作品を世に広める働きをしています。ところが、京助の長男、金田一晴彦は野口雨情の「雨情会」の顧問を引き受けているのです。

親子を通して啄木と雨情はつながっているようですね。啄木と雨情は札幌で出会い、小樽で本を出版しようと理想に燃え「いや~、あの時は良かったね」と、あちらの世界で酒を酌み交わしているかも知れませんね。北海道で結んだ縁は今も続いていると想像します。 啄木への足跡を読んで頂きありがとうございました。


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今年も、戦争のない平和な暮らしを考える。


暑い毎日、暑中お見舞いを申し上げます。


1945年8月6日に広島、9日には長崎への原子爆弾投下。日本は世界で唯一の被爆国といわれています。今年も日本の平和を考える時期になりました。

現在も、被爆した心身の痛みを抱えて、悲惨な過去の出来事を語り継いでいる方々がいます。憲法改正に向けた動きの中で、いのち、平和、個人の自由が守られるようにと切に願います。
戦争をしない平和のために、また地震などで大災害に遭った方々が以前のような暮らしができるように、毎日鶴1羽を折っています。

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「平和のちから」

一万鶴の世界、今回の舞台は大きな鶴2羽が代表になりました。


8月5日現在:
折り鶴(1,454羽)
    (1,974日目)
素材:
和紙、布、大皿1枚 花瓶

舞台:
60cm×70cm



これからも、暑さが続きます。どうぞ熱中症に注意し、体調を整えて涼しい秋に向けてお過ごしくださいますよう。かなり暑い北国からご挨拶を申し上げます。

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<ふらふら寄り道・・、⑮「啄木は函館の立待岬で永遠の眠りに、啄木の足跡を偲んで」(1)


5月の肌寒い日、函館に行ってきました。啄木ゆかりの場所を辿る小さな旅です。
早朝6時に特急で札幌駅を出発し、帰りは函館駅18:49発の日帰り。雨も降っていて、せわしい旅になりました。特急で札幌~函館までは3時間半程。札幌~網走間の5時間20分程を思うと、南方面に位置する函館は近いですね。当日に辿った経路と場所を画像で、ご紹介します。

【1】「啄木小公園」と「土方・啄木浪漫館」

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この経路は、バスのみで市電に乗り継ぐことはできません。駅前バスターミナル③番乗り場から海に沿ってのバス路線で10分以内(本数は1時間に12本)小公園近くにバス停留所

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1階が土方歳三 2階が石川啄木の展示室になっています。資料室の奥の部屋で浪漫シアター「啄木物語」を観ることが出来ます。建物の横に、啄木の歌碑がありました。時間がないので、ベンチに座って駅で買ったお弁当を。早朝なので特急での車内販売はありません。


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★当時、砂山があった大森浜で啄木は砂に寝転がって詩作に想いを馳せていた場所。

明治40年9月、札幌に向かう前日も、最後の散策をしていました(現在は日出町)





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座像の台座には、「潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや 啄木」  台座の手前には、西条八十が啄木に寄せて作った歌碑があります。昭和34年に道内を旅行した際に作った歌。(啄木像の近くは国道で、車窓からも見えます)
石川啄木像は、彫刻家本郷新の作品です。本郷新は啄木に感銘を受けて像を作りたいと想い続けていました。53歳時に制作し、啄木の内面を深く、もの思う啄木像を造りました。「何かに抗して」というイメージで着物、袴も荒削りで特に後ろ姿によく表れています。

【2】函館駅前の市電→「五稜郭公園前」下車。「函館美術館」へ。

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特別展「フランス近代美術をめぐる旅」函館・旭川の2会場で開催。現在は旭川美術館で開催中(~8月17日まで。ひろしま美術館のコレクション)

常設展、昨年亡くなった抽象画家「鎌田俳捺子展」を観てきました。函館出身。北海道の抽象画家として第一線で活躍した代表画家。





【3】市電「五稜郭公園前」→「末広町」で下車。「函館文学館」へ。

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石川啄木生誕百三十年記念特別企画「函館に守り遺されてきた啄木日記」。内容は下記のブログに書いています。


<前回のブログ>






【4】市電「末広町」→「十字街」で、谷地頭行きに乗り換え「青柳町」で下車。「函館公園」へ。


ここで時間をロスしました。公園までは徒歩10分以内なので、晴れていたら公園の正門から入り歌碑を見た後、中を歩いて裏門からタクシーに乗る予定でいました。ところが雨になったので、青葉町の駅からタクシーで公園の外側に沿って裏門に回り、運転手さんに待ってもらいました。裏門から坂を上がった所に2つの池があります。啄木の死後、節子が実家が準備した62間に遺児と3人で過ごした場所、当時は函館公園の横通りにありました。よく子供たちが公園で遊び、奥の池でも遊んでいました(節子の弟、堀合了輔著「啄木の妻 節子」より)。 下が「北海池」、階段を上がった所に「ひょうたん池」があります。               

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さて、次は啄木の歌碑探しです。
急に風雨が激しくなった中で、住民が夜店か坂道の歩道に沿って準備をしていました。歌碑の場所を聞いても分からないよう。急な坂の橋を渡ったり、曲がりくねった道を走り続けたりして見つけた歌碑は「お能」の謡のようでした。函館公園は摺鉢山なので道は平坦ではないのです。幾つか歌碑のような石があちこちにあり、ウロウロして見つけたのが石川啄木の歌碑の場所を示す案内看板でした。階段を上がって歌碑の背後から、公園に入る正門の入り口が見えます。この公園近くに、啄木は離散していた家族を呼び集めてやっと一家で函館大火まで過ごし青柳町の家の場所があります。


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「函館の青柳町こそかなしけれ 
        友の恋歌 
            矢ぐるまの花」 

昭和28年に除幕された啄木歌碑は、風雪にさらされて文字が霞んでいてはっきり読めません。
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正門を入って、向こう側に階段と、歌碑の看板があるのが目印です。





タクシ―が待っている裏門に戻り、「啄木一族の墓」へ。

★写真が多くなったので、2回に分けて書きます。つづく。



<ふらふら寄り道・・、⑭<海を渡った「啄木日記」>


明治41425日 石川啄木は函館から海路を渡って上京した。風呂敷に包んだ日記と小樽日報に載せた記事を切り抜いて綴った「小樽のかたみ」を提げて、金田一京助を訪ねている。その後、東京で約4年間暮らし明治45413日に病死した。

<前回のブログ>


イメージ 1 啄木は日記の取り扱いを3人に遺言している。①東京で約1年間共同生活をした金田一京助には、『あなたに遺すから、あなたが見て、悪いと思ったら焚いて下さい。それまでもないと思ったら焚かなくてもいい』。
 ②函館出身の経済学者丸谷喜市には、『俺が死ぬと、俺の日記を出版したいなどと言ふ馬鹿な奴が出てくるかも知れない、それは断ってくれ、俺が死んだら日記を全部焼いてくれ』と話していた内容を、金田一京助読売新聞社記者の土岐善磨も聞いている。③妻の節子には、『啄木は焼けともうしたんですけれど、私の愛着が結局さうさせませんでした』
金田一京助は、父危篤の知らせで啄木の葬儀後に郷里の盛岡へ。丸谷喜市は、留学中。節子は、土岐善磨と相談しながら葬儀後に賃貸の住宅を出て、病院で次女を出産。その後、2週間ほど盛岡に滞在。親戚では養育を受ける余裕がなく、長女京子と次女房江を連れて94日「啄木日記」を携えて海を渡り、実家のある函館に戻ってきた。


<啄木日記の経過>

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啄木の日記が残ったこと、公開されたことは奇跡的といわれている。人の想いと手を通して公刊されたのが、戦後の昭和23年である。1周忌に函館中央図書館の中に「啄木文庫」を創設し、節子の依頼で「啄木日記」が保管された。結核で入院治療をしていた節子は「啄木文庫」に収めたと聞き、ほっとした様子で喜んでいたという。遺稿などと一緒に約30年間保管されていた。日記の存在は関係者しか分からなかったが、長女京子の夫、石川正雄によって昭和23年に啄木日記が筑摩書房から刊行。(『啄木全集第5巻』[解題]岩城之徳によって日記公開の経緯) 日記公開までは、ハラハラする奇跡のような経過である。当時の函館中央図書館長岡田健蔵の強い意志と宮崎郁雨や関係者の努力で、焼却、盗難、昭和9年の函館大火などに遭いながらも日記は無事に守られてきた。啄木の日記を誰でも読む機会が与えられたのは幸運なことと思う。(長浜功著<『啄木日記』公刊過程の真相―知られざる裏面の検証>2013.10.26発行 社会評論社

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先日、啄木生誕130年「函館に守り遣わされてきた啄木日記」特別企画展を観てきた。( ~平成28年10月4日迄)
休館日:7月8日(金)
    9月8日(木)・9日(金)

函館市文学館は、元旧第一銀行函館支店の建物で2階が啄木のコーナーになっている。奥に銀行の金庫室だった特別室に、函館中央図書館「啄木文庫」保管の日記が展示してあった。(明治41年の4冊は、現在一冊に統合されている)




<日記>
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丁未日誌(明治40年1月1日~12月31日)1月12日までのページ数が少なく、改めて明治41年日誌にまとめ直している。
「函館の生活」。5月5日は、函館に着いた日。11日に新しい仕事に出かけ、仕事の内容を書き留めている。素直な文字で読みやすい。
この後、札幌~小樽の日誌へと続く。





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明治42年当用日記
明治42年1月1日~4月6日・4月7日~6月16日)啄木は当時の日記帳やノートなどを使用し、横書きのもある。
ローマ字日記は字体がきれいで、一部に英語で書いている箇所もある。

左下段は、千九百十二年日記(明治45年1月1日~2月20日)最後の日付は啄木の誕生日に当たっている。
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 (日記と肖像画は、図録からアップ)

<感想>
図録の資料にある山下多恵子氏の、啄木の「声」を引用します。(平成28410日発行 22ページ)「・・私が啄木について書き続けているのは、結局そのことを言いたいのだろうと思います。啄木は実に真面目に生きた人だった、と。よく言われるように、嘘をついたり、借金をしても返さなかったり、自分の結婚をすっぽかしたり・・・と、欠陥の多い人間であったことも事実です。しかし彼は変わっていきます。何度もつまずき、絶望し、けれどもそのたびに立ちあがりました。・・啄木の本を開くと、書くこと・生きることにひたむきであった彼の「声」が聞こえてくる気がします・・」。
 私も啄木の日記や手紙を読んで同じような感想を持ちました。どのように生きてきたのか、当時の啄木の等身大に沿って足跡をたどってきました。この日記がなかったら・・、多分札幌で過ごした2週間の場所を写真で紹介し、ブログを終了したと思います。啄木の日記には人を動かす力があります。一途に、しかし現実を受け入れ、相手方と対峙する、そんな啄木に惹かれて貧弱なブログを続けてきました。今後はブログの訂正や追記も必要かと考えています。啄木を見つめる機会を得たことは何よりの収穫で、ありがたいことです。

★ 最後に展示室に掲げてあった啄木と節子の肖像画です。

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特別室入口内の右の壁に晩年の宮崎郁雨の穏やかな肖像画、中央奥の壁には啄木と節子の肖像画が並べて掲示してありました。啄木の肖像画は、大正2年石川啄木追悼会」時に斎藤咀華が描いたもの。その肖像画を病室の節子に見せると、じっと見ていて離さないので置いてきたという。節子の肖像画は、宮崎郁雨が晩年の入院中に依頼し、木村捷司が若い時の節子の写真を参考に描いています。郁雨は出来上がった肖像画を啄木の肖像画と並べて、これで良いと満足していたとのこと。肖像画を通して想いを巡らせ、心の深みに触れたように思います。



<次回は、函館の啄木、節子の足跡、現在の場所を写真でご紹介し、啄木についてのブログを終了します>





熊本地震から1ヶ月。

熊本地震から1ケ月が経ちました。1万人ほどの方が今も不自由な避難生活をしています。余震を感じながら暮らす生活は耐えられない日々と想像しますが、一日も早く、仮設住宅などでプライバシーが守られた暮らしを願っています。

熊本地震災害の回復を願い、そして東日本大震災からの安定した日常の暮らしを願い、鶴を折りました。熊本地震1ヶ月、★東日本大震災後、2016年513日までの折り鶴1,370羽(震災後1,890日)をアップします。

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 テーマ:「止める」 

周囲にある身近な素材で、一日一羽「一万鶴」の世界を作っています。

この内容をサイトにもアップしました。どうぞホームページも見て頂けたら幸いです。





新緑の季節になりました。心地よい微風に初夏を感じるこの頃です。

今朝、散歩中に撮った木々の花、成長したツツジの花に八重桜が咲いていました。きれいですね。小さな画像は? ツツジではないようです


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「北海道知事公館」の春


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4月29日と30日、北海道では雪がどんと降って冬の景色に驚いています。
札幌は少し吹雪きましたが、積雪はありません。
28日に北海道知事公館の庭園に行きました。早咲きの桜が3本ほど満開でしたが、まだ3~5分咲きです。これからが見頃でしょう。

画像は和紙を素材に、知事公館庭園の作品を作りました。これも、「ちょっとした話」導入の場面づくりです。

熊本地震は、4月30日で震度1以上が1070回超とのこと。熊本、大分方面にお住いの方は不安な日々と思います。一日も早く普通の暮らしができるように、心から願っています。