思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

★松浦武四郎が見た、蝦夷地を支配する松前藩 ⑤

さて、道南の「上の国町」から「松前町」に入り、北前船の寄港跡地にある道の駅「北前船松前」で昼食。松前は北海道の最南端に位置し、江戸時代には商品を運ぶ買積船の寄港で繁栄した町です。道内で唯一の城郭がある松前藩屋敷や寺院が多い城下町、桜の名所とも言われています。天守閣近くの松前公園や桜見本園など4月下旬から5月中旬頃まで多種の桜が満開になり街に彩りを添えます。

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松前城前にある、北海道の桜開花を知らせる古木の桜です。)                             


松前に住んでいた磯崎氏が松前氏と名乗り、「5世の慶広」が1600年(慶長5年)~11年間かけて同じ場所に大規模な「福山館」を築きました。

1849年(嘉永2年)幕府は北方警備のために、松前17世の崇弘」に「福山館」の改築を命じています。本格的な城の設計で、1854年(安政元年)に完成した「松前城」は、日本式の木造城郭という最後の城になっています。
<「東西240メートル、南北300メートル、16の門、7つの砲台、4つのやぐらを有するわが国最後の本格的築城であった」―福山城松前城)の沿革―より>

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明治元年の函館戦争で天守と本丸御門のみを残す状況、昭和24年には業火で三層天守を消失しています。昭和35年~36年に鉄筋コンクリート造りの天守(地上3階、地下1階建て)、現在の城を再建しました。
北海道新聞129日の夕刊に、「渡島管内松前町は・・江戸末期の建設当時の木造で復元する方針を決めた。来年度から基本構想の策定に着手し、最短で2035年度の完成を目指す」の記事。江戸時代末期に造られた城郭のお披露目が楽しみですね。

現在の天守閣は資料館として開放しています。20183月に展示内容をリニューアルし、城内2階には松前出身、藩の家老画家の蠣崎 波響(かきざき はきょう)作「夷酋列像」(いしゅうれつぞう)11点が展示してありました。(フランス・プザンソン美術考古学博物館所蔵の複製)(パンフレットから写真)

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(パンフレットから)

<幕末の松前藩

蝦夷地は幕府が支配し、中世時代には罪人などの流刑先となっていたようです。秀吉~家康時代には朱印状を通して松前藩は徐々に成立していきます。藩は蝦夷地の交易窓口として、主に課税の収入で生計を得ていました。松前を中心にした領域を和人の地とし、他はアイヌ領域と区分して物を交換する、アイヌ人との友好な関係を結んでいました。しかし、コメが採れない課税収入だけの藩財政は大変だったようです。

1457年頃、道南方面でアイヌ民族と和人が全面的に戦争をしています(コシャマインの戦い)。あるきっかけで先住民が蜂起し破れましたが、小競り合いがその後も続いています。アイヌと和人との間に不平等な交易もありました。松前藩は徐々に出費が重なり、家臣に一定の場所でアイヌ人との交易を認めて収益を給料にみなすとし、家臣が交易を商人に任せたのが「場所請負制」です。商人に「運上金」を幕府に納めさせ、アイヌ民族に自由な移動を禁じて交易を制限していきました。

1789年に蝦夷地の東部、道東方面でアイヌと和人が衝突。(クナシリ・メナシの戦い)。和人商人がアイヌ人に対する過酷な状況にアイヌが蜂起し、和人に多数の死者が出る一方、蜂起中心のアイヌ人は処刑される痛ましい事件になりました。松前藩は幕府から咎められないよう騒動の収束と藩の存続のため26歳の画人蠣崎波響に命じ、波響は幕府に協力したアイヌの酋長12人をモデルに「夷酋列像」を描きました。画家は筆を走らせて幕府を救ったと言われ、多くの作品も残しています。

さて、32歳の松浦武四郎1849年(嘉永)に3度目の蝦夷地調査をします。結果を地図と日誌で調査記録35冊にまとめて発表しました。アイヌの人々と生活を共にしながら蝦夷地図を作成し、先住民アイヌの人々が、どのような暮らしにあったのか、事例をあげて詳細に書いています。
松前藩の圧政や商人の悪徳な行為はアイヌ民族の受難と報告し、和人がアイヌ民族を使役として苦しめている原因は藩の「場所請負制」にあると批判しています。この調査記録は中央では評判となりましたが、調査を協力していた松前藩の役人や商人は「なんなんだよ」激怒でしょう。その後、武四郎は39歳まで蝦夷地に渡っていません。松前藩から目を付けられ、商人の怒りを買い、個人として蝦夷地の探索が難しい状況だったのでしょう。

北海道新聞 1221日の記事)「アイヌ政策担当相 石井国土交相を任命。・・政府はアイヌ民族に関する新法案を来年1月召集の通常国会に提出する方針。」
現政府の沖縄及び北方対策担当は石井国土交相です。日本を守る目的で、南方と北方の地域では歴史的に強いられた経緯もあります。明治2年に蝦夷地が北海道と命名されてから150年。松浦武四郎が歩いた北海道の南方面を辿っていましたが、武四郎が見た先住民の主権はどうだったのか、もう少し続けたいと思います。

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次回は、松浦武四郎 原著「近世蝦夷人物誌」から アイヌ民族の過酷な暮らし ⑥   つづく。





厚沢部町「蛾虫温泉旅館」と、レクの森「ヒバ爺さん」(北海道新聞函館支社の記事)④

北海道胆振東部地震」後、震度6弱という初めての体験で意気消沈していたある日、
函館の友が切り抜いて持ってきた北海道新聞函館支社の記事を読み、ブログを書こうと意欲が湧いてきました。

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江差の当日は曇り空。「かもめ島」では夕日も、海を隔てた「奥尻島」も雲に覆われていました。
そこから車で30分ほど、厚沢部町にある「蛾虫(がむし)温泉旅館」に着きました。
町はメークインの発祥地、紫の小花をつけたじゃがいも畑が一面に広がる、のどかな場所に旅館は建っています。新鮮な海や山の幸、盛り沢山の美味しい料理をいただき、庭園を眺めながら天然温泉の広い大浴場や、岩造りの露天風呂に入り、ゆったりと贅沢な夜を過ごしました。
あとで道新の記事を読み、この温泉浴で松浦武四郎も旅の疲れを癒したと分かり、幕末の時代がぐんと近く感じられます。

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<レクの森>

翌朝、車で10分ほどにある「レクの森」へ。ブナなどの広葉樹と道内でこの場所にしかない、貴重なヒノキアスナロ(ヒバ)などの針葉樹が混在している森です。

入り口の右側には駐車場やトイレ、バーベキューハウスなどがあり、左側が「森林展示館」。森に入る前に「入林届」が必要です。

①小沼散策コース ②森林浴コース ③ヒバ登山コースと、3つのコースが楽しめます。

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さて、開館時間前のため電話で入林の承諾を得て、③のヒバ登山コースを選びました。

私は2人に付いて行くだけです。濡れた道草を踏みしめ、小枝に絡んでいるクモの糸を手で払いながら、山側の最も奥の方に向かって15分弱歩いた所に「あずま屋」がありました。前を流れている細い川を渡って、急斜面に入ります。
細い曲がりくねった道を登りますが、自然道の両側は樹が斜めに根を張って立っている深い沢です。高所恐怖症の私は足が震え途中でギブアップ。飛び越えられそうな川なのに、中の石を伝って「あずま屋」まで戻り、クマよけにと江差追分節らしい声掛けや、思いつく歌を唄っていました。
2人は「ヒバ爺さん」まで行き、「エゾライチョウ」が飛び立つのを見てきたとのこと(ヒバ巨木は、直径2m、高さ30m、樹齢500年から600年)。

「ヒバ爺さん」から少しゆるやかな道を行くと、「ブナ婆さん」があるようです。2人は私を心配して戻ってきたのですが、どうも小学生でも登山が楽しめそうな場所です。


江差方面から上の国町の「天の川」橋を渡り、「上の國八幡宮本殿」(道指定文化財)、
「道の駅 上の国もんじゅ」⇒松前町へ。

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本殿は、1699年に建立し、明治9年、現在地に遷しています。

画像は拝殿。
少し開いていましたが、本殿は奥に建立されており、外部から見学はできないとのことです。







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次回は、★松浦武四郎が見た、蝦夷地を支配する松前藩 ⑤


★幕末、江差を舞台に幕府軍艦「開陽丸」の運命(旧幕府とともに) ③

江差の海岸近くにある町役場前の国道228号に沿って、山側に一本入った通りが「いにしえ街道」で、江戸末期の歴史的な建造物やお寺などが建っています。
ニシン漁の廻船問屋「旧中村家住宅」、漁業、商業などの問屋「横山家」、また北海道最古の神社「姥神大神宮」(うばがみ だいじんぐう)では、ニシン豊漁で栄えた記念を毎年8月に祝い、町を練り歩く渡御祭が盛大に行われています。



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<開陽丸>
「いにしえ街道」から海に向かい、海岸には、えさし海の駅 開陽丸「開陽丸青少年センター」の建物と、その後ろの海辺に幕府軍艦「開陽丸」があります。平成2年にオランダで製造した設計図をもとに原寸大に復元したものです。
幕末に江差海の沖に止まっていた「開陽丸」が暴風雨で沈没しました。平成2年に調査し、復元した木造艦内には、海底から回収された遺品が3万点以上展示してあり、砲弾の音と勇ましい蠟人形の声にびっくり。解説の文章や、当時船員が寝ていたハンモックなどがわかりやすく展示してあり、体験もできます。

旧幕府と新政府の戦い「北辰戦争」末期、明治元年に旧幕府の軍艦「開陽丸」は函館から江差港に入り、戦わずして江差を占拠し、その夜に暴風雨で「開陽丸]座礁します。
陸から攻めていた旧幕府の土方歳三と、海上から軍艦を率いていた榎本武明が江差の宿屋で休んでいる時、「開陽丸、沈む」との知らせで、2人は沈没する軍艦を見ていました。松の幹を何度も拳で叩き、涙をこぼしたと語り伝えられています。最新技術で製造し賞賛された軍艦、日本湾に入港して2年ほどしかたっていない。悔しさと自分たちの運命を見たのでしょうか。
(土方は、函館戦争中に35歳で討死。 榎本は、函館戦争で降伏し数年牢獄に入りますが、明治政府の黒田清隆に才能を認められて、その後北海道開拓使の任に就いています。)

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船内の甲板から「かもめ島」が見えます。













<かもめ島>

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陸続きの「かもめ島」は江差のシンボルといわれる、檜山道立自然公園の特別地域に指定された美しい小島です(江戸時代は弁天島と呼ばれていました。海抜20m 周囲2.6km)

海面に浮かぶ、「瓶子岩(へいしいわ)」は漁民の守り神として崇拝され、江差にニシンの群来が押し寄せて町が繁栄したことを記念し、毎年7月の「かもめ島祭り」には町内の若者がしめ縄をかけかえます。全長30mに重さ500キロ)


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さて、かもめ島を歩きましょう。
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敵を見つけるのに、今はスマートフォンで情報を収集できますが、昔はどうだったのでしょう。


江戸時代の後期に、侵入する諸外国船を迎え撃つ場所が設けられました。「かもめ島(鴎島)の大砲を備える場所は、南にキネツカ台場、北にテカエシ台場が設けてあったそうです。





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厳島神社(いつくしまじんじゃ)」は、  1615年に創建されたと伝えられています。
境内には船頭たちが寄進した石鳥居や方向の刻された手洗石が残されています。 
                                    



次回は、厚沢部町の「蛾虫温泉旅館」と、レクの森「ヒバ爺さん」(北海道新聞函館支社の記事から)④






★ 松浦武四郎が歩いたであろう、道南日本海側 の沿岸地域を旅して ②

アジアが強国ヨーロッパに植民地される情勢の中で、当時ロシア船が日本に度々渡航していることを知った松浦武四郎は、北方の防備に目覚めて蝦夷地の探検を決心します。
28歳の時、青森から江差の船に乗せてもらい初上陸します(1845年)。しかし、瀬棚まで行くが松前藩の取締りが厳しく江差に戻り、知り合いを通して江差商人の手代として太平洋海岸の知床まで歩いています。翌年の2回目渡航では、江差から日本海側の海岸線を北上して宗谷に着き、そこから船で樺太に渡っています。
4回目39歳の時、今回から幕府の役人として函館から日本海側を北上して調査に加わっています。その中で沿岸地域の人々と交流して食し、宿泊しながら主に徒歩での長距離の調査は大変厳しい状況であったと想像します。


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今年の6月、札幌から函館へ帰る友と札幌から2人の3人で小旅行をしました(車で札幌から江差まで4時間30分)。 24日の早朝に札幌を出発し日本海沿岸の町々へ、幕末の武四郎さんと逆ルートです。八雲から熊石に入り、乙部→ 厚沢部→ 江差厚沢部町で宿泊)。 25日朝、厚沢部町(レクの森)→ 上ノ国→ 松前→ 「函館山」で夜景→(湯の川温泉で宿泊)26日に函館の五稜郭周辺を散策して札幌に戻ってきました。
海岸通りから日本海を眺め、歴史のある建築物などが点在する、細長い街並み。丘や山で区切られている各地域の自然は豊かで美しい景観でした。(平成29年度、道内で初めて江差町松前町、函館市が日本遺産に認定されています)
今回は、江戸幕府末期の特徴的な歴史と文化をもつ地域、江差松前を主に取り上げたいと思います。

江差

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江差に和人が住みはじめたのは、1190年前後のようです。道内で最も早く開港した港町で、1790年頃から北前船(きたまえぶね)」が日本海路を運行していました。大阪を起点に、江差を終点とする商品を運ぶ買積船です。
江差では、厚沢部から上の国に広がる槍葉(ヒバ)木材の出港と、ニシンの交易などで商業の町、文化の町として繁栄を極め、商人を中心とした江差文化が築かれました。現在は江差町の財産になっています。

江差町役場前の広場にヒバの木材で作ったモニュメントが設置され、すぐ近くに「江差追分会館」があります。
「今は2つのお祭り(■かもめ島祭り ■江差・姥神大神宮渡御祭)に若者が帰ってきて町中が大勢の人で賑わいますが、普段は人通りが少なく淋しいですよ」と、会館前の花壇整備をしておられたボランティアさんのお話です。
伝統文化の一つ「江差追分」は、信州の馬子唄が船歌として船頭たちに唄われ、その後江差でも唄われるようになりました。現在は毎年全国から歌を競う人々が江差に集まり、今年の9月には56回「江差追分全国大会」を開催しているようです。

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江差追分会館」の展示品で、踊る江差人形のケースに、なぜか彫刻家 佐藤忠良作品の女性像が立っていました。


次回は、幕末にオランダで建造し江差の海岸で沈没した軍艦「開陽丸」と、
「かもめ島」について書きたいと思います。    つづく。

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★「ようこそ北海道へ」北海道命名150年、命名者は幕末の探検家・松浦 武四郎 ①

9月6日の震度7北海道胆振東部地震」では、札幌市で私が住んでいる地区も震度6弱と高層マンションなどの揺れは大きく、ライフラインの影響や被害がありました。2週間が過ぎても特に被害の多い地域では亡くなった方が多く、今も避難所で不自由な生活を続けています。日本の各地域での台風や地震被害が多いニュースに心を痛めております。


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北海道命名150年ということで、6月の小旅行、函館方面に行きましたのでブログに書きます。
7月に蝦夷(えぞ)を北海道と名付けた旅の巨人、松浦武四郎の特別展に行ってきました。(2018630日~826日 北海道博物館)展示内容は後で書きたいと思います。


蝦夷地図>

蝦夷図は江戸初期から作成が始まり、蝦夷地開発のため伊能忠敬間宮林蔵の実測で蝦夷地全体の地図が科学的に正確なものになっています。


幕末に武四郎は海を渡り、後半は幕府の役人として6回ほど蝦夷地を調査しています。カラフト島やクナシリ・エトロフ島まで歩き、それぞれの土地に住んでいたアイヌの人々と生活を共にしながら川、山、村などの名前を記した地図を作成しています(安政6年(1859年)「東西蝦夷山川地理取調」は、建2.4m×横3.6m経度、緯度を1枚とし、26枚組で構成)。蝦夷地を含めた北方地図にはカタカナ文字で名がびっしり書き込まれており、赤線や漢字も入れて分かり易く区分けした見事な地図になっています。

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(地図2枚は、著者山本 命「幕末の探検家 松浦武四郎」より)

蝦夷地の探検ルート>
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            (上記の画像は先の著書より)


4回目の調査は、樺太(サハリン)などを歩き、その後に武四郎は重病になります。函館で過ごし病を何とか乗り越え、5回目の調査では安政4年(1857年)、丸木舟で川を渡り、石狩川など川筋の調査のため内陸部に入っていきます。武四郎は石狩川に合流する豊平川から遡った札幌を京都に見立て、この豊かな大地に府を置くことを即座に提案しています。

豊平川の渡し守、志村鐵一>

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当時の豊平川は現在位置と違っているようですが、橋が架かるのは明治になってからです。その頃は渡し舟で行き来していました。


安政六年に幕命を受けた「志村鐵一(てついち)」は、信州から海を渡って蝦夷に入り、豊平川の渡し守と通行屋の任としてこの近くに定住していました。志村は未開地の札幌に単身で来て明治初めの橋が完成するまで10年間渡し守を、その後も宿屋として橋を守っていました。しかし、幕府寄りと冷淡に処遇された志村は悲運な運命を辿ります。


豊平川は札幌市の市街を流れて石狩川に注ぐ石狩川支流の河川です。私が現地に行った当日は昨夜の大雨のためか、流れが速く濁流で水量もけっこうありました。明治頃の水量は今の5倍ほどあったそうです。

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現在、「札幌開祖」志村鐵一碑は、昭和42年の新豊平橋の完成時に近くの小公園に移動し、プレミアホテル(ルネッサンスサッポロホテル)の敷地内、豊平川に沿った幹線道路に面していますが、分かりづらい場所にひっそりと建っていました。(豊平区豊平4条1丁目1-1)       

                                   つづく
(★地図の配置がうまくいきません、お読みいただきありがとうございます。)






★【心に残る場面づくり】「時の扉」

★心に残る場面づくり 【6回】 「時の扉」


 場面設定(紋別市 大山山頂展望塔)オホーツクスカイタワー)

 

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流氷の時期、展望台から紋別の街が一望できます。
今回のテーマは、辻邦生の小説「時の扉」です。(和紙を素材に、F15号で作っています)
「時の扉」は、毎日新聞夕刊の連載小説(19762-19772 )、主人公「矢口忍」の激しいまでの挫折、そして魂の再生の物語です。


東京で文学講座の講師である矢口は、受講生「ト部すえ」と出会う。すえは控え目で矢口に惹かれながらも立場をわきまえ、矢口に迷惑をかけてはいけないという姿勢で接していたが、矢口はすえの思いをそれとなく分かり交際をはじめる。
矢口の詩劇作で、すえは高校友達の女優「梶花恵」を紹介し、矢口は花恵を朗読役に決める。朗読指導の中であでやかな薔薇の芯を放つ「花恵」の魅力に引きこまれてしまう。すえと結婚話をしていたが物足りなく思えて花恵と結婚する。矢口はすえが電話で最後に言った「お会いできれば、私、しばらく東京を離れるつもりです」に、仕事があると言ってしっかりと受け止めていなかった。後々まで矢口は必死に叫んでいた彼女の心の声を聴くことができなかったと悔い、罪悪感の自己否定で心の旅をすることになる。「すえ」が小さな遺骨になり、祖父母の手に抱かれて帰ってきた時、罪を犯したと感じて償いの人生が始まった。

矢口は東京を離れて北海道の果て、オホーツク海の傍らにある開拓時を思わせる屋並みの低い町に住む。中学校の教師になり自分を消し去るため北国の荒れた孤独な環境で5年間過ごし、10年かけても罪の償いは消えないと刑罰的な日を過ごしている。ある日、流氷を見に行き、「灰色の雲の間からまた薄日が白く漏れ、幾筋もの光となって氷塊の上を照らしている。烏が一羽風に逆らいながら遠くの岬を目指して飛んでいった」


その後、詩人仲間だった「江村卓郎」に、シリア考古学調査隊に加わりたいと手紙を送り、シベリアの舞台になる。矢口はシベリアの砂漠で、「罪の償いがあるとしたら、この生を本当に生きることだ」と少しずつ分かりはじめていた。「夜明け前の雲は透明なすみれ色に変わり、明るいばら色に染まっていた」


<ひとこと>

小説では、「卜部すえ」と「梶花恵」を対照的な女性として描いています。2つの面を比較しト部すえを理想像としているようで少し気になりましたが、小説の世界ですね。


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★【心に残る場面づくり】作品を、主に小説の世界を描きサイトに5回載せています。サイトの不具合で、アップができず、こちらのブログで続けたいと思います。ネットでは参照可能ですので、下記にテーマを載せておきます。


(サイト掲載分)★【5回】「ときの彼方へ」(小樽:大学生時代の瀧口修造)     ★【4回】「或る日」(札幌:有島武郎宅) ★【3回】「見えない日常のたび」(網走:網走川の夜景)  ★【2回】「氷点」心の風景(旭川三浦綾子記念文学館前の外国樹種見本林)    ★【1回】「リラ冷え」(札幌:大通公園


★ホームページアドレス:http://www.geocities.jp/reimei_tear_5/












広島、長崎に原爆投下 そして終戦の日(第二次世界大戦後73年)

【 折り鶴の世界 】

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    一日一羽、一万鶴


★4cm×4cm四方の小さな和紙で折っています(しんなりした和紙)

★折り鶴の世界は、自然災害の回復、また平和で普通の暮らしを願う折り鶴たちです。

(舞台は、60㎝×70㎝と決めています)




各地域の悲惨な自然災害から、過去の戦争から、人の温かい心と行動で平和な暮らしにつなげられるように願い、

2018年8月5日までの「折り鶴」をアップします。(16回目)

( 東日本大震災後、2,705羽 )

  【 折り始めてから、2,185羽 】

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★今後、ホームページから移行し、ブログに載せていきたいと思います。


 (1回目~15回目の「折り鶴の世界」は、下記のホームページ「表現の素材 和紙」に載せています。)


ホームページアドレス  http://www.geocities.jp/reimei_tear_5/






有島記念館、北海道ニセコ町

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先日、有島記念館に行ってきました。(201869日は有島武郎の命日、生誕140周年、また3代目の有島記念館40周年と重なった日となり、有島も応えてか、コンサートの場所で遺影を移動する際に落下しそうになり、ひやっとした場面も。)現在の記念館は北海道ニセコ町の自然豊かなに場所に建っています。札幌から高速バスで道の駅「ニセコビュープラザ」まで3時間弱かかり、そこから徒歩20分ほどに位置しています。


当日は命日である「星座忌」が行われており、入館料無料でコンサートなどもありました。有島武郎白樺派で活動した小説家です。「相互扶助」の思想から、有島は大正期に所有していた広大な農場を小作人に無料で開放(共生農団)し、戦後の農地改革を経て有島の精神を伝えるために記念館を設立しています。

記念館入口の右側は、有島武郎の生涯や書籍などの常設展示室になっています。展示室は西洋風のレンガ仕様で各コーナーには当時の農場で使用した道具類や洒落た置物、装飾が施されています。展示室に大きな窓が多く、厚手のカーテンを少し開けると外の景色と一体感があります。また入口左側にブックカフェ、ミュージアムショップ、アートホール(コンサートや講演会などを開催)、特別展示室があります。展示室は絵画などの企画展、創作発表の場として提供し、当日にはイラストレータ貼り絵作家の藤倉英幸氏の北海道の風景画などが展示されていました。(記念館に約1200点を寄贈されている)。有島が絵を描いていたこともあり(北海道大学で英語教師、絵画「黒百合会」の顧問)、特別展示室はその意思を継続する目的のようです。

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記念館の外で来訪者が鐘を鳴らしていた場所は(有島武郎像の後方に鐘、右隣りのこんもりした蔦の内部が修道院)、有島武郎の小説「クララの出家」の修道院をモチーフにした造りです。ニセコを舞台に有島の小説では、「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「親子」があります。


当日、道の駅「ニセコビュープラザ」の裏側に食事もできるパン屋さんがオープン。テレビ放映もあったのか来客の行列、時間節約のため「道の駅」前の向かい側にある蕎麦屋さんで「だったんそば]を食べ1時ごろに記念館へ。帰りは雲から見え隠れしている羊蹄山に見おくられ、高速バスで札幌に戻りました。

(当日の羊蹄山と、数年前の5月頃に撮った写真です。)
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個人的なことですが、ホームページのソフトが故障しアップできなくなりました。作品などを載せていましたが、今後はこのヤフーブログで一本化したいと考えています。(「表現の素材 和紙」)現在までの掲載分は、ネットで閲覧できるのでヤフーブログに、ホームページのアドレスを常時表記できる方法を工夫したいと思います。

ブログ掲載をご無沙汰していますが、今後は頑張りたいと思いますので宜しくお願いいたします。









2018年になりました。

新春

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             (和紙を素材に作ってみました)

新春のお喜びを申し上げます。
みな様のご健康とお幸せを、心からお願い申し上げております。

昨年はすっかりご無沙汰しておりました。

今年からは少し余裕ができそうで、ブログのアップ回数を多くしたいと考えています。また、みな様のブログにもお伺いいたします。

今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

<「札幌国際芸術祭2017」(芸術祭ってなんだ?)>を観て(2) 一市民の感想

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930日の朝、東区にある「モエレ沼公園」に行ってきました。芸術祭閉幕の前日です。私用のため音楽祭には参加できず、演奏が行われる場所に大風呂敷を敷き詰めるイベントに、1時間ばかり参加してきました。イサム・ノグチ設計の公園、最大の造形山「モエレ山」や「ガラスのピラミッド」を背景に、広さ約1万平方メートルの大風呂敷が鮮やかに広げられました。(10メートル四方の大風呂敷100枚) 冒頭の画像はイベントの様子です

「大風呂敷プロジェクト」は市民と一緒につくる芸術祭象徴の取り組みです。回収ボックスを札幌市内イオン7店舗、札幌市役所や区民センターなどに設置して布とミシン糸の協力を呼びかけ、大風呂敷工場には色とりどりの布が山積みになっていました。大風呂敷縫いは、工場の他に学校やサークル、施設などの団体や自宅で縫う個人参加などで市民全体のプロジックトになっていました。

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芸術祭のテーマは「芸術祭ってなんだ?」です。美術館で絵を観るから少し分野を広げて関心を持ちはじめた私は、赤い表紙小冊子の観賞ガイドを丸めて持ち歩き、市内で行われている展示と音の場に佇んで、「なんだ?」の体験でした。芸術祭が終幕し淋しい感情の中にも温かい余韻が残り、何なんだろう・・・。子供盆踊りに行くため、好きなアザミ模様の浴衣に赤い帯を締めながらウキウキ感のよう。

もうひとつ、市民参加型のプロジェックトに「さっぽろコレクテイブ オーケストラ」がありました。札幌コンサートホールKitaraを会場に16:0018:04までの演奏、市内に住む小学生から18歳までのアンサンブルです。音の鳴るものをもって集まれの公募で約2年間、各分野の講師や協力でワークショップを数回行い本番での披露でした。

オーケストラ コンダクターの大友良英氏は、パンフレットに次のような言葉を載せています。「大人の見本をなぞるのではなく、自分たちで音楽をみつけていくこと。それもひとりではなくアンサンブルの中で。そんなことを可能にする「場」を作ることがさっぽろコレクテイブ オーケストラの役目・・未来は自分たちの手で作っていくことができるということと繫がっていくような気がしています」

 前の席で演奏していた子供たちが席を立って、リズムに合わせてイキイキと動き回わり、指揮をやりたい、やりたいと音の鳴るものを持ちながら演奏の前で飛び跳ねているのです。大友氏からは「指揮者が見えるように」との一言だけ。2時間も動き回る子供たちのパワーは凄い。大きな舞台で緊張どころか、練習の成果を楽しんでいるようでした。最後は参加しているギター演奏者を囲んで座り、名前を連呼する「名前の歌」。自分の名前を呼ばれて皆と唄う笑顔に感動しました。個々の集まりがアンサンブルを仕上げたということでしょうか。終幕には並んで客席に挨拶をするでもなく、子供たちがぞろぞと舞台から居なくなり、忘れ物を取りに男の子が戻ってきたので笑ってしまいました。


1011日にさっぽろコレクティブオーケストラ」ってなんだったんだろう?を振り返るトークセッションに行き、難しい事は分かりませんが、市民が参加する芸術祭の雰囲気を確かに受け取ることができました。

大友良英JAMJAMラジオ @kbs_jamjam の中で、市民参加型という、一般の人を巻き込むのは本当に難しい。途中でトラブルもあるが、カオスと秩序を繰り返しながらダイナミックな映像としてみせる。行政や市民を巻き込んでの芸術祭は課題も多いが芸術で地域、日本を作り上げていく一つかも知れない、それを信じている。トラブルになるから止めるのではなく、多くの人の参加で次につなげてほしい。このような内容を話されています。


大友さんの著書「音楽と美術のあいだ」(2017.3 フィルムアート社発行)を読んで、最後の10月1日は道立三岸好太郎記念館開催の大友良英アーカイブと決めていました。展示を観て、大友氏は冷静で緻密に一つ一つを積み重ねて努力していく、そんな姿勢を感じました。他人も自分も楽しめるような取り組みは、相当の忍耐力と成長するという信頼感がなければ、そして根底には受容と確信のようなものがあるのだと思います。
 オーケストラでは舞台の左手で目を細めて子供たちのいきいきした演奏を楽しむ一方、冷静な目で確認されていたと思います。同じように札幌の舞台で繰り広げる個性的な展示と音の祭典も、未来に向けて星座たちの輝きを見守っていたのではないでしょうか。未だに芸術祭が何だったのか分かりませんが、そんな気がするのです。

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第1回の札幌国際芸術祭は坂本龍一氏のゲストディレクターで近代化された札幌の街をアートで振り返り、第2回は大友良英氏のゲストディレクター札幌の街にある忘れられたものに光をあて、市民参加の種をまいていきました。次回の芸術祭にはどんな芽が出て花が咲くのか、一市民として3年後の芸術祭が楽しみです。(ツイッターで行政担当者がノリノリで・・とのつぶやきを読んでホッとしました。行政の協力、影の努力は芸術祭を支える大きな柱だと思います)